第12土曜 ルカ4:31-44



【祈り】

[1] 主の祈り

【聖書通読のたすけ】

 ナザレを去ったイエスは再びガリラヤ湖のほとりのカペナウムにやってきました。イエスがこの町をあえて選んだ理由は、マタイ4章13節以下に記されています。旧約聖書時代以来、忌まわしい歴史の中にあったこの地方にメシヤが来るということの意味です。日常の喧騒、活気、人々の商業活動。しかし、その表の顔と異なる過去や覆い隠されている本当の痛む所に神が光をもたらすこと、それがイエスがここに来た意味でした。そして、ここの人々の中の、しかも、年老いた人々、苦しみ弱っている人にイエスの目は注がれ続けています。ここには、単なる奇蹟だけではなく、神の恵みの本質があります。
 39節では、「枕もとに来て」とあります。原文では、「その上に」とか、「覆うように」。慈しみの姿です。自分の本当の母親のように慈しむ姿。そして40節では、人々が「病人をみもとに連れてきた」とあります。そして、「イエスは、ひとりひとりに手を置いていやされた」と続きます。原文では、「しかし、イエスはひとりひとりに手をおいた」となっています。つまり、たくさんの人が次々と入って来ても、キリストが接するのは一人一人なのです。
 「いやされた」という言葉は、「セラペウオー」、「セラピー」の語源です。しかし、単に癒すという意味だけではありません。この言葉は、「仕える」「奉仕する」という意味を持ちます(使徒17章25節「仕える」参照)。
 私たちの体を造った方が、弱さを持つ体にご自身が仕えてくださるというのです。触れる愛が満ち溢れるのです。もちろん、そこには「熱をしかりつける」ということに見るような、神の主権と力が示されます。病も死も、個々人が何かしたからということではなく、神さまの前に過ちを持った罪の世の結果、腐敗している世界の一端です。そこに回復を与えることを示すイエスの姿がここにあるのです。

 このイエスのわざを日々支えていたものは一言、それは祈りでした。4章42節、「朝になって、イエスは寂しい所に出て行かれた」。マルコの並行箇所には、「祈るために」と言葉が加えられています。「寂しい所」は、人のいない場所のことであり、その場所に行くイエスとは、祈りの場所に行くイエスの姿のことです。多くの人と接するだけでどれほどのエネルギーを必要とされたことでしょう。ヨハネ4章6節「イエスは旅の疲れで、井戸のかたわらに腰をおろしておられた」 喉も渇き、空腹にもなり、疲れて30歳そこそこのイエスも「どっこいしょ」と座るのです。
 新約聖書の中には、「疲れる」という言葉はわずか4回しか登場しません。その中で、具体的に「この人が疲れた」と書かれているのはただの一回、イエスキリストだけです。全人的といいましたが、体と心とたましいは一つであることはイエスについても違うとはいえないのです。その中で、イエスの癒し、回復、力の源が祈りのうちにあったことを思います。「寂しい所」と訳されたギリシャ語「エレーモス」は、4章1節にあった「荒野」という言葉とまったく同じです。
 寂しい所とは、人の言葉や世の楽しみから離れた所です。そこにある神との交わりという、繰り返し繰り返し聞いても、なかなか、現代人、この文明社会に生きる私たちには、残念ながら遠い言葉のように思います。しかし、人がいて、あるいは世の刺激があって楽しい所、元気がもらえることもあるでしょうが、たましいを持つ存在である自分が、たましいの癒しと力が必要であることを、聖書を通して学びましょう。それを与える方も神だけであること。祈りは「交わり」としてあるのです。


【信仰告白】

[2] 使徒信条