聖書の人々は、神に集中するために断食ということを大切なこととしました。イエス自身、人々のために真に神に仕える者となるために、まず神に集中し、全身全霊を神の思いで満たすのです。荒野は神の声の響く所であり、飢えのある所には満たしがある所です。ただ、荒野で40日の断食というのは、命にかかわる時間の長さです。このときの様子、マタイ4章ではイエスが、「悪魔の試みを受けるため御霊に導かれて荒野に上って行かれた」と記されています。最初からそのような目的であるならば、食料も十分準備して、体力気力充実させて行くべき所です。つまり、イエスは、人としてあえて極限の状態に自分を置いて、その中で厳しい試練を味おうとされたということです。
そんな中で、まずサタンは、3節「石に、パンになれと言いつけなさい」と語ります。怖い言葉ですか?いや、そのようにすれば、イエス自身、飢えはしのげるのです。イエスが犬死するような者でなく、その力があることを示すチャンスです。サタンの一つの「やさしさ」です。
5節では、幻の内にでしょうか。この世のすべての文明を見せて、権力と栄光を渡すとささやきます。悪魔の手に一時的に渡すことを神が許しているのですから、それは取り返す絶好の機会。救い主として全世界に一気に登場するチャンスであり、悪魔の最大の譲歩ではないですか。
9節では、エルサレム神殿の頂に立たせて、飛び降りてみろと言います。神殿を囲む城壁の一番高い所は、140mあったことが分かっています。城壁の外側は、そのまま深い谷になっていたのです。落ちれば、死ぬだけの所です。逆に言えば、イエスだけは絶対に死ぬことのない神の御子であることを誇示する絶好のチャンスです。加えて、神殿は常に多くの人が集まっている場所であり、最高の舞台です。それを悪魔が準備してくれているという「配慮と親切」です。
しかし、イエスはこれらすべての「チャンス」を逃しました。それらが、実はすべてサタンに屈服し、サタンによって得るものであり、サタンの主権の中に身をおいて可能なことを知っていたからです。すべて光に見えて、光でないもの。良きことに見えて、実はたましいを売り渡して、一時の力に酔うだけの姿となってしまうことをご存知でした。
悪魔という言葉、ギリシャ語では「ディアボロス」、文字通りには「敵対する者」「訴える者」という意味です。それをヘブル語で言えば、サタン。力よりも、人の心を操るたくみさを持つ存在です。そして、神に敵対するということは、三角の尻尾を持って、こうもりの羽を持っておこなうことではありません。聖書では、むしろ天使のフリをしているのが悪魔と言われます。「しかし、驚くには及びません。サタンさえ光の御使いに変装するのです」。(第二コリント11章14節)
私たちを立てて、何かを与えて、偽りの慰め喜びで満たし、自信を与えて、自尊心をくすぐるようなことが多いのです。そこに、しかし、いつしか神に敵対する自我をつくろうとする巧みさがあるのです。自分の名誉、利害、欲のために、偽りの言葉に乗らないことです。一回だけ、慰めだから、しょうがない状況だから、誰も理解してくれないのだから、プライドを守るためだ、誤解されないためだ、という一見優しい言葉の中にある力に気をつけましょう。
人間イエスの武器は、「御言葉」でした。誘惑は、実に内的なものであるからこそ、武器ではなく、たましいに働きかける御言葉なのです。イエスをそこに導いたという御霊が御言葉を力ある物にしてくださるのです。