冗長とも思えるキリストの系図です。マタイ1章の系図とは異なっていることにすぐ気づきます。マタイは、アブラハムからイエスまで下ってくる系図でした。他方ルカは、ヨセフから遡る書き方です。しかも、この系図は、アダムまでたどるものです。
さらにマタイと異なっているのは、これが母マリヤの系図であることです。冒頭のヘリというのは、マリヤの父親です。当時の習慣として、それをヨセフの父と呼ぶことはまったく問題ありませんでした。そして、マリヤの先祖にはダビデがおり、本当にイエスは血縁においても、ダビデの子孫ということです。
さて、この系図で、ダビデの名前を見つけることができるでしょうか(31節)。1000年遡る時代の人物です。島国の話しではありません。ここにさかのぼるまで、ローマ、ギリシャ、ペルシャ、バビロン、アッシリヤ、エジプトの支配があってのことです。その大変な歴史の興亡の中でかつてあった約束を思い出しましょう。
第二サムエル記7章12〜13節(イザヤ11章1〜2節)
「あなたの日数が満ち、あなたがあなたの先祖たちとともに眠るとき、わたしは、あなたの身から出る世継ぎの子を、あなたのあとに起こし、彼の王国を確立させる。彼はわたしの名のために一つの家を建て、わたしはその王国の王座をとこしえまでも堅く立てる」
さらに、神の貫かれる言葉を見ましょう。アブラハムの名前を見つけることができるでしょうか(34節)。ダビデからさらに1000年、イエスの時代から2000年遡る時代の人です。
創世記12章3節
「あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される」
さらにアダム(38節)にも約束がありました。実際の年数はもはや不明です。
創世記3章15節
「わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく」
系図で結ばれているのは血筋だけでなく、神の約束です。約束のために、神はそのしるしとしてこの流れを守り、人の不実を忍耐をもって越えて神は計画を遂行するのです。なぜこれだけの時を人は待たなければならなかったか分かりません。少なくとも、これだけの時を経て、イスラエル人が神の前に少しでも成長を遂げて、神に従えるようになり、救い主の痛みを軽減したのかというと、そうではありませんでした。時が経つほどに人の愚かさと恐ろしさは増したのです。ローマ帝国の収奪と、そのための組織的な戦争は完成の領域にあったのです。その頂点とキリストの表れを私たちは重ねるのです。
38節「このアダムは神の子である」
人は神によって存在しているのです。人はパンだけで生きるのでない、神の口から出るひとつひとつのものによる。その人間が、神の元に取り戻されていくことがどうしても必要なのです。救いの歴史は、まさに私たちが本来のあり方を取り戻すための神様の計画です。私たちが困ったとか、限界を感じたからという、人が中心の話しの宗教ではありません。この冗長とも見える歴史に、神の忍耐があり、私たちが悟るべき人間の愚かさがあり、約束に忠実な神の真実があることを見出してください。今日のさわぐ心、疲れ、焦り、思いどおりに行かない憤り、妬み、自己卑下、自己憐憫、うらやみから解放されて、私たちのところにおいでになった永遠のイエスを迎えましょう。