イエスの誕生から30年あまりが過ぎています。1節の「ヘロデ」とは、イエスを殺そうとしたヘロデ大王の息子ヘロデ・アンティパスです。ユダヤ地方はローマ総督の直轄地で、ガリラヤとペレヤはこのヘロデの支配下、兄のピリポは北の地方の支配者でした。国主とは、王の権力の1/4を示す「四分領太守」と訳される言葉です。
さて、父なる神の主権の下にあるイエスの宣教の出発点は、ユダヤの荒野でした。だれも自分の領土とは主張したくもない土地です。権力者にとって意味があるとすれば、エルサレムの東側に広がるこの荒野は人を近づけない土地であったがゆえに、エルサレムを守る東側の緩衝地帯であったことくらいです。
しかし、荒野こそは旧約の時代から神が人に語る所でした。何もなく、命はただ神の御手の中にあることを感じる厳しい場所です。しかし、何もないからこそ、神と向き合い、その言葉が響きわたる所、神をそのまま感じて、また取り扱われる場所でした。
生活が満たされている中に神の言葉が届きにくいことは経験している私たちでしょう。人生において荒野と思われる試練がある時、そこは神さまと向き合える所と言うことは事実多いものです。モーセ、ダビデ、エリヤ、アモス、エレミヤ、パウロ・・・これらすべてが荒野を出発点としていることは偶然と思えません。
洗礼者ヨハネが荒野で福音の第一声を上げたこと、それも神の言葉を真に求めてくる人たちへの場所としてのことでしょう。とりわけ、メシヤを迎える心備えがここで言われる大切な事柄です。取税人や兵士たちがあえてここに来るということに、新時代の到来を感じます。「罪人」とされていた人たちの中にも、神への真剣さが(信仰)あれば救いに道が開かれる時代がきたのです(12〜14節)。
人生の荒野での神さまとの出会いを大事にしましょう。ここでの真の悔い改めを大事にしたいとも思います。