判決通り十字架刑が執行されてしまった。兵士たちはイエスの着物をくじで分け、道行く人々はイエスをののしった。そして祭司長、律法学者たちはこう言ってあざけった。「他人は救ったが、自分は救えない。」(31節)この言葉こそイエスの使命を的確に表している。他人を救うために、自分は十字架から降りることなく父なる神からさばかれること。これが、イエスがずっと目を離さずにいた「父のみこころ」だった。
その時、全地が暗くなった。父なる神がイエスをかわいそうに思ったからだろうか。いや、この時神は燃える怒りでイエスを容赦なくさばかれたのだ。イエスが「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれた通りである。こうして歴史上のすべての罪人への神の大いなる怒りとさばきは身代わりのイエスの上に徹底的に下り、永遠から永遠まで一つである父と子の関係は一時的に完全に断絶された。
正確にいうなら「他人は救ったが、自分は救わない」イエス。神であり命や死さえ治めておられる方が、その手中にある死に従われた。間違いなく死に飲まれ墓に入れられた。女たちはそれをしっかりと見ていた。周りが嘲ったように十字架から降りるというパフォーマンスでイエスが自分を救ったら、他人 ― 私たち ― の救いはなかった。