第11月曜 マルコ14:43-72



【祈り】

[1] 主の祈り

【聖書通読のたすけ】

 裏切り、イエスの逮捕、そしてペテロの否認について。先ほどの食卓でイエスが言った通りに弟子の一人のユダがイエスを裏切った時、周囲は騒然となった。ユダが口づけするやいなや人々はイエスを捕らえ、イエスの側にいた者は剣を抜いた。しかし当のイエスは毅然としてこう言った。「こうなったのは聖書のことばが実現するためです」(49節)。しかし、みなの者はそのイエスを見捨てて逃げた。

 大祭司の所でイエスがご自分をキリストであると認めた時、大祭司は「神をけがすこのことば」(64節)と言った。イエスの言葉を、自分が知っている神の言葉、つまり聖書とは同一視しなかった。かえって神を冒涜する言葉だと言い切った。そしてイエスを死刑に定めた。

 ペテロは一度、イエスを捨てて逃げたものの、その後イエスについて大祭司の庭に入って行った。そこで、イエスに言われていたようにイエスを知らないと3度否定してしまった。鶏が鳴いてからやっとイエスの言葉が真実であったことに気がついた。

 緊張感が溢れ、裏切りや嫉妬、陰謀が渦まく中、人の子は罪人たちの手に渡されるというイエスの「言葉」を弟子たちは覚えていただろうか。また、大祭司は彼の指針たる「聖書」が預言している救い主をしっかり見定めることができていただろうか。逆に、イエスへの嫉妬が強すぎて、真の「言葉」であるイエスをさばいてしまったのではないか。そしてペテロもイエスの「言葉」を真剣に受け取っていたら、イエスを否認することがなかったかもしれない。この人間の罪、弱さのまっただ中で、人となられた「言葉」であるイエスは真理の「言葉」を語りつつ、公然と「御言葉」の成就に向かっていく。


【信仰告白】

[2] 使徒信条