イエスの十字架前夜、最後の晩餐からゲツセマネの園での祈りまで。イエスの人としての生涯のクライマックスに入る。そこでまずイエスが語られたのが弟子の裏切りについてだった。裏切る者はこの言葉を聞いても計画を思い直さなかった。イエスの言葉を聞いた弟子たちは悲しみ、私じゃないですよね?私は大丈夫ですよね?と問う。「あなたがたはみな、つまずきます」(27節)と言われた時もペテロを始め弟子たちは自分はつまずかない、私はあなたを裏切らない、と主張した。しかし、一緒に死ぬこともいとわないと豪語した矢先、一緒に起きて祈ることもできなかった彼ら。
裏切る者もそれ以外の弟子たちも結局この時、自分のことを考え、自分のために生きていた。自分の計画、自分の利益、自分の潔白、自分の正しさ、自分の眠気・・・。
この時一番悲しんでいたのは裏切られるイエスだっただろう。そして、その後誰も味わったことのない孤独 ― 神に見捨てられ、徹底的に裁かれること ― に放り込まれる恐れと不安のために自分のことで心がいっぱいになっても一番おかしくない人だった。しかし、この時イエスが見ていたもの、それは自分のことではなく天の父のみこころだった。彼は神なのだから当然と簡単に言いきれるものではなかっただろう。恐れ、悲しみがなかったのではない。それらと父のみこころとの激しいせめぎ合いがイエスのうちにもあった。それと血の汗を流すまで戦われた。そして、イエスは父のみこころに従うという決断をされ、この戦いに勝利された。
自分に固執する者を憐れんで、ただみこころのゆえにいのちを差し出してくださったイエスの前で私たちはどう生きるか。