約束の救い主は「ダビデの子孫として生まれる」と預言されていたとおり、イエス様はダビデの子孫ヨセフの妻マリアから生まれました。しかし系図の上ではそうであっても、マリアは処女のとき「聖霊によって」身ごもってイエス様を産みました。だから、イエス様は単なるダビデの子孫ではありません。それ以上のお方です。聖霊によってこの世に来られた神の子であられます。
さてイエス様は律法学者と、金持ち、ひとりの貧しいやもめに目を向けられました。想像すると律法学者たちは、会堂でどんなにか幅をきかせて歩いていたに違いありません。皆からどんなにか敬われていたでしょう。また金持ちたちは献金するときもガランガランとたいそうな音を立ててたくさんの献金をしていたのでしょう。
しかし一方、貧しいやもめはどうでしょうか。彼女が献金を投げ入れたとき、だれが聞いても最小単位のレプタ銅貨だとわかるような小さな軽い音が鳴ったでしょう。なんだ、これっぽっち。周りからそんな目で見られて逃げるようにして去っていくやもめの彼女の姿が眼に浮かぶように思います。
しかし、イエス様は、この貧しいやもめのささげものを誰よりも誉められました。
このように、神様の目は、私たちの心や信仰の真実をごらんになります。人間はうわべの金額の大きさ、立派さなどで人を計りますが、神様はそうではありません。
続く13章1節の「宮」とは、ヘロデ大王によって着工され46年かかってもまだ完成しないほど入念に造られたものです。回廊の柱は、1つが4メートルもある石でできており、全体は格別な美しさでした。
しかし、この上なくみごとな石も、すばらしい建物も、立派ないでたちも、この世の地位も、名誉も、いつか主の前に出るとき、それはくずされます。今まで私たちを覆い、取りつくろっていたすべてのものが取り払われて、神様の目の前にただ裸の自分が立つこととなります。
それは「終わりの日」です。13章で終わりの日の前兆が教えられます。にせ教師の惑わし、戦争、地震やききん、また主を信じる人びとは迫害を受けます。
これは、今日に至る歴史のなかでも、何度も教会を大きな波となって襲ってきたものであり、終わりの日の近い、今から先に起こることでもあります。しかし、最後まで耐え忍んでイエス様への信仰を持ち続けるなら、神様の前にひとりで立つこととなるその時にも、恥じることはないでしょう。
イエス様の御前に立つ日が近い今、いよいよ私たちのうちに、うわべを飾るのではなく、また見せかけの信仰を誇るのでもなく、貧しいやもめのように真実に歩む心を養いたいと願います。