群衆は、主イエスの権威(authority、1章22節他)も、力あるみわざ(power、1章27節他)も目の当たりにして、「この方こそ救い主に違いない」と信じていました。祭司長・律法学者・長老たちも、その事実は認めないわけにいきませんでした。その事実と群衆の支持の前には、いくら彼らの権威をもってしても主イエスを手にかけることはできませんでした(11章18節・12章12節)。
彼らは謀議を重ね、「権威と力でうまくいかないのなら、言葉の罠に陥れよう」ということになったのでしょう。しかし、彼らの不幸は、主イエスの正体を知らないことでした。人となられた「ことば」なるお方(ヨハネ1章1〜3・14節)に、言葉の罠をかけようとするとは・・・。
問答は3つあります。【1】神のものは神に(神と国家・社会〔人〕に仕える)。【2】生きている者の神(復活について)。【3】神を愛し、人を愛す(一番大切なこと)。そのうち、【1】を見てみましょう。
当時、多くのユダヤ人(群衆)は、「神が約束の地に導き、ご支配なさるなら、どうして他の支配者に税金を納めなければならないのか?」、という疑問を抱いており、指導者層の「パリサイ人」たちも納税に否定的でした。他方、現実的なイスラエルの繁栄のためにはローマ支配をも許容する「ヘロデ党」は、納税にも肯定的でした。その両翼が、呉越同舟よろしくやって来たのです。
14節の問いは、迎合するように納税を肯定すれば、「神の国」という言葉が一気に力を失い、群衆も失望と反感のうちに離れてゆき、他方、納税を否定すればローマ帝国への反逆者として訴追されるおそれのあるものでした。
これに対し主イエスのお答えは、イデオロギーではなく、誰も否定することのできない事実に基づいたものでした。「カイザルの像が刻まれ、その所有が明認されるなら、持ち主に返すのは当然でしょう」と。わかりやすいです。
これを現代風に「キリスト者と国家」というテーマに引き直すと、「貨幣に象徴される経済制度をはじめ、国という枠組みのなかで、そのインフラの便益を享受しているのなら、それに対する責任も果たすべきである」と言えるかもしれません(参照:ローマ13章1〜7節、第一ペテロ2章13〜14節)。
ところで、もう一方の「神のもの」とは何でしょうか?神の像(イメージ)が刻まれているものとは?・・・創世記1章27節を開くと次のようにあります。「神はこのように、人をご自身のかたち(像)に創造された」。そうです。私たちです。
社会的責任(人への責任)を果たしつつ、神のものである私たち自身、私たちの人生は、神にお返しする(献身する)。そういう生き方がキリスト者である。そうおっしゃっているように思います。