主イエスの権威は明らかな力をもって示されました。しかし、祭司長・律法学者・長老たち(27節)にとって、それは受け入れ難いものでした。モーセ以来の律法や伝承に基づく権威を自負する彼ら(「家を建てる者たち」〔10節〕)にとって、主イエスは、ナザレという田舎からやってきた、30歳そこそこの大工の息子にしかすぎず、彼らの価値観からは権威を認めることのできない存在だったからです。しかも「宮きよめ」です。
妬みと怒りを押し殺して、彼らは主イエスに尋ねます。「何の権威によって・・・」(28節)
「神の子の権威によって、天の父から授かった一切の権威をもって」
とは、お答えになりませんでした。主イエスのことを前述のように見ている彼らにとって、このストレートな言葉を受けとめるだけの土壌はありませんでした。むしろ「自分を『神』とするなんて!」と、火に油を注ぐだけでしょう。十字架にかかる「時」が未だ到来していないことを見た主イエスは、直に答えて事件とすることはせず、彼らの心のうちにある妬みと怒り、そして人の目を気にする恐れをご覧になったうえで、彼らには答えることのできない問いをもってお答えになりました。
けれど、彼らの問いを封ずるだけではありませんでした。たとえを用いて、彼らのしようとしている“近未来”を示されました。主人の使いに恥をかかせ、愛する息子を殺すなど、狂気の沙汰です。そんなことをしたら、社会で生きていくことはできず、自分の人生も終わってしまうことは、冷静に合理的に考えたら誰の目にも明らかです。群衆の空気を読むことに長けた祭司長たちなら、なおさらわかるはずです。主イエスは、「あなたがたがしようとしていることは、それほどのことなのです」と、近未来の視座を投影し、立ち返るよう促されました。
「家を建てる者たちの見捨てた石、それが礎の石になった。これは主のなさったことだ。私たちの目には、不思議なことである」(10〜11節)
主の救いは、まったく人手によらず、ただ神のみわざによります。「不思議なことなら、私たちにはわからないのでは?」
しかし律法は次のように述べます。「あなたがたが心の中で、『私たちは、主が言われたのでないことばを、どうして見分けることができようか。』というような場合は、預言者が主の名によって語っても、そのことが起こらず、実現しないなら、それは主が語られたことばではない」(申命記18章21〜22節)
主イエスは、ご自身がメシヤであることを、これまでにも数々のみわざをもって(私たちも見てきたように)、証明されてきました。それは、律法学者たちの熟知した律法の基準から見ても、弁解の成り立たないほどに明らかでした。
主の救いの恵みにあずかるには、不思議なみわざを見極める権威や技量が必要なのではありません。すでに明示されているみわざを、へりくだって信じるだけなのです。