第10月曜【マルコ11:1-25】



【祈り】

[1] 主の祈り

【聖書通読のたすけ】

 11章からは、十字架までの最後の1週間(受難週)について、ゆっくり詳しく描かれます(マルコ伝の約1/3は最後の1週間)。週のはじめ、人々は「ホサナ(どうぞ救ってください)」と叫んで、主イエスを迎えました。しかし週の終わり、人々は「十字架につけろ」と叫んで(15章14節)、主イエスを殺しました。強烈な対比です。いったいこの1週間に何があったというのでしょう?・・・(もちろん次の新しい週には、神によって全く新しいことが起こるのですが)

 エリコから上ってこられた主イエスは、ろばの子に乗ってエルサレムに入城されました。その子ろばは、「主がお入用なのです」という、たった一言で引かれてきたものです。乗りものの用立てひとつからも、神の子としての権威が描かれます。

 また、「宮きよめ」をされました。もともと、いけにえの動物の売買や神殿納付用のシェケル銀貨の両替は巡礼者の便宜のためでしたが、時を経て目の前にあったのは、「祈りの家」ではなく、利得へといざなわれ「強盗の巣」となり果てた「父の家」でした。主イエスの、父なる神から委ねられた権能をもって断行される姿に、神の子としての権威が描かれます。

 さらに、自然界全体を治める神の子としての権威が描かれます。前日に、「いつまでも、だれもおまえの実を食べることのないように」(14節)と主イエスのおっしゃったことを聞いていたペテロたちは、翌朝、主イエスのことばどおりになったいちじくの木を目の当たりにします。

 エルサレム入城以来、「生ける神の御子キリスト(救い主)」の権威を明らかにされる主イエス。しかし他方で、その権威が、祭司長・律法学者たちを十字架の陰謀へと走らせます(18節参照)。神の子の権威を受け入れられず、へりくだって心の王座を明け渡さない者にとって、主の権威は、除きたくてたまらない邪魔な存在となります。主の権威が、彼らの「罪」を断罪し、自分たちの権威・プライド・既得権益を揺るがすからです。

 恐ろしいことですが、しかし、彼らのあり方を反面教師に、謙虚に自省する者でありたいと思います。私たちも、彼らと同じ罪人なのですから。主イエスを十字架につけたのは、まさに私の「罪」なのですから・・・。
 悔い改め、あわれみを求めて祈るとき、神は必ずその祈りを聞き、主イエスの御名によって、罪を赦し、救ってくださいます。偽ることのないみことばによって、確かに約束してくださっていますから。「祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。・・・あなたがたの罪を赦してくださいます」(24〜25節)と。