当時、まだだれも乗ったことのない動物は、きよい目的のために用いられました。真の王であるイエス様は、何千年も前からずっと計画されていた救いのみわざをなされるべく、「ホサナ」(どうぞ救ってください)との叫びを受けつつ、いよいよエルサレムに入ってこられました。
しかし、エルサレムの町でみたものは、見せかけだらけの信仰の姿でした。神さまの宮は、神さまを礼拝するにふさわしく扱われていませんでした。目に見える「神さまの宮に対する態度」は、目に見えない「神様への信仰の状態」をわかりやすくあらわしています。このときの様子からわかるのは、形式的には神様を崇めていても、実際は神様を利用している彼らの姿でした。しかも、彼らが商売をしていたのは、異邦人が礼拝をささげる場所でした。彼らは自分たちの利益しか考えないで、異邦人の礼拝の場所を奪っていたのです。
「いちじく」(13節)は神様の民を象徴しているといわれます。このいちじくの木は遠くから見ると、もしかしたら何かあるかもしれない、そう期待できるほどりっぱに葉が茂っていましたが、そばに近づくと実が1つもありませんでした。そのように、このエルサレムの町も、外から見ると活気があってすばらしいのに、その実態はそうではなく、神の民の信仰は形式的で、霊的には沈んでおり、神の民の歩みは自分中心でした。
でも、そんなひどい町でも、またこの世の信仰がどんなに堕落していても、望みがあります。そのような場所に、イエス様は猛然と正義をあらわしてくださり、神の宮のふさわしい姿への回復の第一歩を踏み出してくださったのです。そして、この「正義にあふれる全能の神さま」を信じて祈るところに、私たちが生きるこの神を汚す罪の世が、変えられていく希望があります。また、このイエス様によって、今までは見せかけだらけで堕落していたこの私の信仰をもきよめていただける、変わっていけるのだという希望があります。