第10日曜【マルコ10:35-52】



【祈り】

[1] 主の祈り

【聖書通読のたすけ】

 ヤコブとヨハネが天の座を願い出ました。残り10人も、この抜け駆けに立腹していることから(41節)、同じ思いだったことがわかります。
 主イエスが天の栄光の座にお着きになることを前提とした十二弟子の願いは、一見すると立派な信仰告白とも取れそうです。主イエスと一緒に十字架につけられた犯罪人も、最後に「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください」(ルカ23章42節)と告白し、天国に入る確約をいただいています。
 しかし、主イエスは諭されました。言葉の上では似ていても、それは、悔い砕かれた心からの切なる願いではなく、「あなたの栄光の王座」(37節)と言上しつつ、己を心の王座に据える「罪」(※)からにじみ出ていたからだと思います。
※ 罪とは、「神を神とせず、己を神とし(創世記3章5節)、神の座すべき心の王座に己が着座し、神と断絶すること」と定義します。

 主イエスは、おっしゃいました。主イエスの弟子(キリスト者)は、仕えるしもべになりなさい(44節)、と。
 主イエスが地上に来られたのも、仕え仕えて、ついにはご自身のいのちさえ私たちの「罪」の代価として差し出されるためでした(私たちが天国の座に着くことのできるようになるために)。
 だから、心の王座に主イエスをお迎えし、日々一瞬一瞬「イエス様ならどうする(WWJD=What Would Jesus Do?)」と想う者たちも、そのように生きなさい、と。

 ヨルダン川を渡りエリコまで上られると、バルテマイという目の見えない貧しい男が、すがりついて懇願しました。「イエスさま。私をあわれんでください」(47節)。砕かれた心でした。
 主イエスはご覧になり、おっしゃいました。「あなたの信仰があなたを救ったのです」(52節)
 視える自由を得て、「さあ、行きなさい」と言われたバルテマイが選んだ先は、主イエスの行かれるところでした(52節)。