当時の社会で価値を認められていなかった幼い子どもたちを抱き上げ、手を置いて祝福されるイエス様の姿は大変印象的です。子どものように、自分の弱さや欠けを認める者たちこそ、神の国に入ることができるのだとイエス様は教えられました。
「永遠のいのちを自分のものとして受けるためには、私は何をしたらよいのでしょうか」(17節)。イエス様にこう質問した人は、とても誠実に、また真剣に求めてはいましたが、自分の努力で神の国に入れると考えていました。事実、イエス様が十戒を語られると、自分はそれらを全て守っていると答えています。しかし、すべてを捨てるように求められた時、この人は、イエス様に従うために自分の富を手放すことができず、そこから立ち去ったのでした。
「あなたには、欠けたことが一つあります」(21節)。これは、あともう一つというものではなく、この一つのためにすべてを無にしているという一事なのです。自分の欠けや問題に気づいていても、その解決を今までの生き方の延長線上でとらえている限り、救いを受けることはできないということです。あるいはまた、自分には影響がないような距離でイエス様と係わっていても、求めている解決には届かないということです。
私たちは、自分の富や力では、神の国に入ることはできません。救いを受けるために必要なことは、一つです。主イエス・キリストに向かう方向転換なのです。
人の持つ何かではなく、神様だけが人を救うことができます。「それは人にはできないことですが、神は、そうではありません。どんなことでも、神にはできるのです」(27節)。
イエス様のために、また福音のためにすべてを捨てて従う者に対して、神様がどれほど豊かな報いを与えて下さるかをイエス様は教えられました。そういう人はこの世でも大きな祝福を受けるだけでなく、「後の世では永遠のいのち」を受けることを約束されたのです。これから向かわれる受難、そして復活について具体的に語られる主イエス・キリストのことばを、私たちは自分のこととして受け止めていく必要があります。