十字架に向かって歩まれるイエス様の後ろで、弟子たちが論じ合っていたのは、この中でだれが一番偉いかということでした。彼らは自分たちのことだけを考えていたのです。それは、イエスが先にお示しになった、自分を捨て、自分の十字架を負う生き方とは正反対のものでした。しかし、これは決して弟子たちだけに見られるものではなく、一番上になろうとする、この世の縮図であると言えます。
イエス様は語られました。「だれでも人の先に立ちたいと思うなら、みなのしんがりとなり、みなに仕える者となりなさい」(35節)。
当時、子どもは社会的にはとても低く見られていました。子どもだけでなく、弱い者、小さな存在を受け入れるためには、そこまで自分を低くし、降りていくことが求められます。しかし、その生き方こそ、イエス様を受け入れることであり、神様を受け入れる祝福の姿勢であると教えられたのです。
ともすれば社会では、勝ち残る者こそが最も偉いとされます。人を蹴落としてでも上へ向かおうとする力が働いています。しかし、それとは正反対の生き方、そして死に方をされたお方がいるのです。このお方のことばを、私たちは受け止めていかなければなりません。
41節以下では、愛の配慮について語られています。私たちの内につまずきとなるものがあるなら、それを捨てるようにと教えられます。私たちのために他の人が失われることのないようにということです。教会でも、社会でも、このことばを受け止めていく必要があります。
イエス様と弟子たちは、ガリラヤから南下し、ヨルダン川を渡ってペレヤ地方に入りました(10章1節)。ここで再びパリサイ派の人々がイエス様を陥れようと質問して来ます。
テーマは結婚と離婚です。イエス様が語っておられるように、結婚は神様が結び合わせて下さるものです。夫婦がひとつとなること、人はこれを引き離してはならない、というのが、変わることのない神様の御旨です。
敵対者の念頭にあるのは申命記24章1節の離婚に関する律法ですが、これは離婚を法的に規制し、人(特に女性)を守るために定められたものであって、決して神様が離婚を望んでおられるわけではありません。
イエス様はあらためて、結婚に関する神様のみこころを教えられたのです。