6日後、イエス様はペテロとヤコブとヨハネを伴って高い山に登られました。ピリポ・カイザリヤの北東20kmのヘルモン山(標高2,800m)であると考えられます。そこでイエス様の姿が栄光の姿に変貌するのを、3人の弟子たちは目撃することになったのでした。
この変貌は、神の子であるイエス様の隠された(本来の)栄光を示すものでした。それと同時に、復活され、やがて再臨されることを宣言された(8章38節)ご自身の栄光の姿、究極的勝利をあらかじめ示すものでした。
その衣が白く光り輝いていたことが強調されています(3節)。かつてシナイ山でモーセが神様の栄光を反射して輝いたことを想起させます(出エジプト34章29〜30節)が、イエス様の輝きはモーセとは違って反射ではなく、ご自身の神の栄光そのものでした。
イエス様と語り合うエリヤは預言者の代表者、また終末の時を告げる先駆者。そして、モーセは律法の代表者です。ここにはイエス様が旧約聖書の預言の成就であること、神から遣わされた、約束されたメシヤであることが示されているのです(4節)。
ペテロは気が動転してしまい、幕屋を3つ作ることをとっさに提案しますが、これはイエス様をモーセ、エリヤと同列に並べる誤った考え方に基づいていたと言えます(5節)。そこに、湧き起こる雲の中から神様の御声が響きます。「これは、わたしの愛する子である。彼の言うことを聞きなさい」。イエス様のバプテスマの時(マルコ1章11節)のように、父なる神様はただひとりの御子についてあかしされたのでした。イエス様の受難の予告、「苦難のメシヤ」に衝撃と困惑をおぼえていた弟子たちに、イエス様の神性、栄光に満ちた姿が示されたのです。
ペテロは生涯、この出来事を忘れることがありませんでした。彼の信仰と宣教の原動力として、栄光のキリストはその心に刻みこまれたのです(第二ペテロ1章16〜18節)。