イエス様はこれまで、人々に神の国の福音を宣べ伝え、多くの奇蹟、数え切れないほどの癒しのわざを行なってこられました。直前にも4,000人(これは女性・子どもを除いた数)の給食の奇蹟を行われたばかりです。にもかかわらず、なおもパリサイ派の人々はイエス様に対し、天から遣わされたメシヤであることのしるしを見せるよう求めました。
何を見、何を聞いたとしても、悟ろうとせず、信じようとしない不信仰を彼等のうちに見たとき、イエス様は霊的に深い嘆きを覚えられたのです(11〜12節)。敵対者たちだけはありません。弟子たちもまた、霊的な理解力が鈍く、「まだ悟らないのですか」と繰り返しイエス様に言われる状態だったのです(13〜21節)。これらの記事は、男の耳が開かれ、舌のもつれが解かれた癒し(7章31〜37節)、見えなかった人の目が開かれた癒し(8章22〜26節)の出来事と対照的に描かれています。
私たちの信仰の耳や目はどうでしょうか。イエス様に向かって開かれているでしょうか。
8章27節以降に記されたピリポ・カイザリヤでの出来事は、マルコの福音書のひとつのクライマックスと言える部分です。「では、あなたがたは、わたしをだれだと言いますか」(29節)。重要なのは、人がどう言っているかではなく、私たち自身がイエス様を誰だと言うかです。ペテロが答えました。「あなたは、キリストです」。弟子の口から初めて、イエス様に対する信仰の告白がなされたのです。
しかし、そのペテロは直後に、イエス様から「下がれ、サタン」とまで言われて厳しい叱責を受けることになります(31〜33節)。イエス様とは“どんなメシヤであるか”ということが決定的に重要なのです。政治的・地上的英雄としてのメシヤを思い描いていた弟子たちにとって、ご自身の受難と復活についてはっきりと教え始められたイエス様のことばは、到底理解も受容もできないものでした。人間的な気遣いの虜となって、神様のみこころに逆らい、ご自分をいさめようとしたペテロの中に、イエス様はサタンの働きを見られたのです。
さらにイエス様は、群衆も弟子たちと共に呼び寄せて教えられました(34〜38節)。信仰とは頭の中の話ではなく、ご利益でもなく、アクセサリーや個人の趣味でもありません。自分自身の全存在をかけて、イエス・キリストに従っていくことです。イエス様のことばは、終末の時代に生きる私たちにとって、ひとつひとつが深く響いてくるものではないでしょうか。