7章は、汚れときよめがテーマです。話は、イエス様の弟子が手を洗わないままでパンを食べていたのを、パリサイ派の人々や律法学者たちが咎めたことに始まります。ユダヤ社会には、3〜4節に一部があげられているように多くのきよめのしきたりがあり、特にパリサイ派はこれらを堅く守ろうとする人々でした。手を洗うといっても、衛生を目的とした行為ではありません。まったく宗教的な儀式でした。
しかし、イエス様は彼らに向かって、そんな規定を守ったからといって人がきよめられるわけではない、と告げられたのです。そして、「人間の言い伝えを堅く守っている」だけで、彼らの心が神様から遠く離れている事実、「人間」によって張り巡らされた膨大な数の「言い伝え」によって、神のみことばが無にされている事実を鋭く突かれたのです。
イエス様はさらに、食べ物を始めとして、「外側から人にはいって、人を汚すことのできるものは何もありません」と明言されました(15節)。汚れときよめは、心の外側でなく、“内側の問題”です。人から出て来るもの、すなわち心の中にある汚れが、外に現れて人を汚すのです。
日本にも、「身を清める」とか、「塩をまいて清める」といったように、不吉なものを取り除いて清めるという思想があります。しかし、いくら外側を整えても、自分の心の問題を解決しなければ、人間は本当にきよめられることはできません。では、どうしたら心の汚れを解決できるのでしょうか。それは、主イエス・キリストのもとに行くことです。このお方だけが、私たちをきよくし、神様によって新しく生まれさせることができるのです。