評判が高くなることと、信仰が呼び起こされることは違います。たくさんの効果的な宣伝をし、耳目を驚かせたとしても、主イエスに躓く人はいるのです。
主イエスが育った郷里、ナザレの町の人たちは、自分たちは主イエスを充分知っているという慢心のゆえに、主に躓きました。
またバプテスマのヨハネの説教を聞いていた国主ヘロデ・アンテパスも、罪は認識しても、神への信仰に向かう悔い改めには至らず、ただ過去の罪におののくのみでした。過去の罪とは、踊りに浮かれたことばの勢いで、神の人を斬首するという愚挙でした。人はどうして、人を恐れて、神を恐れず、罪に罪を重ねていくのでしょうか。
そんななか、王も庶民も躓きに汚染された不信仰な世界へ、あの選ばれた12人の弟子が宣教へと派遣されるのです。2人1組、必要最低限の備えのなかで一宿一飯にあずかり、拒まれることも覚悟して、神の国を伝え、悪霊を追い出し、病人をいやしたのです。不信仰な世界のなかで、ひるむことなく捨て身で宣教している人たちが、今もいることを覚えます。私たちもまた遣わされてこの世に出て行ってまいりましょう。