イエスの裁判は続きます。ピラトは宗教指導者たちがねたみからイエスを引き渡したことに気づいていました。また、ピラトの妻は夢を通してイエスの無罪を緊急の伝言として伝えます。しかし、群衆は宗教指導者たちに説得され、慣習として過越の祭りに釈放する囚人にバラバを求め、「イエスを十字架につけろ」と叫びました。ピラトは「あの人がどんな悪いことをしたというのか」(23節)とイエスを釈放する努力をしますが、群衆の暴動と自分の立場が危うくなるのを恐れ、イエスの血の責任を放棄します。それに対してユダヤの人々は「イエスの血は自分たちと子供たちの上にかかってもよい」(25節)と答えましたが、最終的な決定を下したのはピラトで、イエスをムチでうち、十字架につけるために引き渡したのでした。
イエスはマントとイバラの冠と葦の棒で王と見立てられ、ユダヤ人の王様万歳とからかわれました。そして、つばをかけられ頭をたたかれる中、一歩一歩、十字架へと進んでいかれます。ゴルゴタと呼ばれる処刑場で、イエスは、手足に釘を打ち付けられる痛みを麻痺させる、苦味を混ぜたぶどう酒を拒まれます。それは十字架の痛みを最後まで耐え尽くすためでした。それから、イエスは十字架につけられました。道をゆく人、宗教指導者たち、いっしょに十字架につけられた2人の強盗も、イエスをあざけりました。彼らは、イエスが、他人を救うからこそ自分を救わないことを知りませんでした。イエスは罵り返さず、自分を罵る罪人の罪を代わりに背負って、その刑罰にじっと耐えたのです。