31節以降、弟子たちの中で、ペテロの姿がクローズアップされています。「私は決してつまずきません」(33節)という勇敢な言葉を述べたペテロ。その言葉の後オリーブ山では、イエス様に何度も起こされながらすぐに眠ってしまいます。しかしユダがやってきた時には「決してつまずきません」との潔い言葉の通り、大祭司のしもべに悠然と立ち向かっていきます(51節)。けれども直後、イエス様を残して逃げていってしまいます(56節)。と、思いきや、ペテロはその後こっそりとイエス様について大祭司の中庭まで忍び込んでくるのです(58節)。「決してつまずきません!」の約束を守らねば、という気負いもあったのでしょうか。しかしこの後、逃げ腰になり、思わず「イエスだって?そんな人は知らない」と口走ってしまいます(72節)。
なんとしてもイエス様に最後までついていくのだ!という熱い思い。しかしその熱き心を一瞬にしてかき消してしまう肉体の弱さ(41節)や恐れ、自分の身を守りたいという護身の思い。その2つの思いの間を揺れ動いているペテロの葛藤が伝わってきます。
ペテロと同じように、「心は燃えていても肉体は弱いのです」(41節)というイエス様の言葉は、私たちの毎日の生活で体験しているものではないでしょうか。「小さきものの一人に仕えたい」という理想の一方で、心身の弱さや誘惑、恐れ、護身のために、その小さきものを残して逃げていこうとする自身の現実の姿との葛藤。
「だから、誘惑に陥らないように、目を覚まして祈っていなさい」
そのイエス様のお言葉がこの私の耳にも聞こえてくるのです。