そしてついにイエス様の十字架の時が近づいてきました。
明日は十字架の日。
その最後の過ぎ越しの食事の席で「この中の一人がわたしを裏切る」(21節)と言われたイエス様のお言葉に、弟子たちは「まさか私のことではないでしょう?」と悲しみの声を上げます。
この時、イエス様を裏切るのが自分だと知っていたユダは他の弟子たちの声には加わらなかったでしょうか。その直後、「人の子を裏切るような人間はのろわれます。そういう人は生まれなかったほうがよかった」(24節)というイエス様の言葉を聞き、「のろいだって?まさか私が?」(25節)と思わず声が出てしまったのでしょうか。ユダの、ドクン、という心臓の音と共に、大きく見開いた目が見えるような気がします。イエス様をいくらで売れるか(15節)ということに気をとられていたユダにとって、自分自身がのろいの対象となるとは想定外の誤算だったのでしょうか。
「生まれなかったほうがよかった」とは、なんと悲しい言葉でしょう。イエス様の十字架の死のあと、死を迎えるユダ(使徒1章18節)の耳の奥には、この時のイエス様の言葉が繰り返し響いてきたのかもしれない、と思うのです。