ここは、イエス様の「宮きよめ」として知られる箇所です(マルコ11章15〜17節参照)。マタイとマルコの福音書では、宮きよめは、イエス様の生涯の最後の方にあったとしていますが、ヨハネは最初のエルサレム訪問の時にあったと記しています(ヨハネ2章14〜16節)。これは、2回あったためと考えられます。
宮では、巡礼者たちがいけにえの動物を買い、神殿に納める貨幣を両替していました。そこでは商人たちが私利私欲のために、暴利をむさぼっていた状態でした。本来は、神様に心を向ける「祈りの家」であるはずの宮でしたので、イエス様は義憤を表わされたのでした。
以前ソロモンの神殿には「盲人や足なえ」の人は、入ることができませでした(第二サムエル5章8節)。
しかしイエス様が彼らをいやすことにより、ご自身が「いけにえよりも、あわれみを好む」主であられることを示されました。子どもたちまでが、イエス様のすばらしさをほめたたえている様子を見て、祭司長や律法学者たちはねたみに燃えましたが、イエス様は詩篇8篇2節を引用され、ご自身がそうされるにふさわしい存在であられることを示されました。
イエス様も完全な神であられながらも、完全な人であられ、お腹も空けば、眠くなったり(マタイ8章24節)、涙されることも(ヨハネ11章35節)ありました。
ここでイエス様は、実がなかったことに腹を立てて、のろわれたのではありませんでした。一見敬虔そうでありながら、実が伴わないユダヤ人たちへの視覚教材として、神様の不快を示されたようです。そして、その通りに枯れたいちじくの木を通して、イエス様は神様の知恵と力に信頼するなら、常識では不可能と思えることもさせていただけることを教えられました。
この出来事も、マタイ、マルコ、ルカそれぞれに記されています。「民の長老」とはエルサレムの最高議決機関であるサンヘドリンの議員の総称です。いわゆる「お偉い方々」が、連日のイエス様の宮きよめや、行い続けている奇蹟に腹を立て、ねたんで、挑戦してきたのでした。これに対し、イエス様は賢く対応されました(箴言26章5節)。それに対して、彼らは「天から」と言えば、イエス様を救い主とするヨハネのあかしを受け入れなければならなくなり、「人から」というと、過小評価していると自分たちが批判されていまうというジレンマに陥り、「わかりません」と逃げ口を使いました。彼らは、イエス様を封じ込めに来ましたが、逆になってしまいました。