「ゼベダイの子たち」とは、イエス様の12弟子の中のヤコブとヨハネのこと(10章2節)です。ここでは2人の「母」がお願いをしていますが、どうやら3人みんなの願いであったようです(マルコ10章35節)。その願い事とは、「天国でイエス様の右と左に座らせてください」でした。
しかしイエス様は、彼らがイエス様に並ぶ苦難と謙遜の生涯を送る覚悟があるのか、また、イエス様の左右に座るためには、父なる神様から認められる必要があることを示され、「仕えられる」者ではなく、「仕える」心を持った者こそ、それにふさわしい者であることを、語られたのでした。
それには、この2人のことで、同じような心で腹を立てていた他の弟子たちも、沈黙してしまったことでしょう。
この出来事は、3つの福音書すべてに記録されています(マルコ10章46〜52節、ルカ18章35〜43節)。ただ、マタイだけが「2人の盲人」(30節)としているのに対し、マルコとルカはただ1人として記しています。これは2人のうち、1人(バルテマイ)が積極的に行動し、人によく知られた人物であったためと考えられます。
彼らの言葉「ダビデの子よ」とは、救世主はダビデの子孫から生まれるという預言を踏まえ、イエス様を救い主として信じていたことを伺わせます。
イエス様は、あえて自分たちの願いを言わせ、心からの愛を持っていやされました。2人は、その回復した目を、イエス様について行くために、用いたのでした。
イエス様が遣わされた2人の弟子とは、ペテロとヨハネだったかもしれません(ルカ22章8節)。イエス様は、すでによく知られていたので、快くろばを貸してくれる人がいたようです(3節)。
全世界の主であられるお方が、軍馬ではなく、小さなろばの子に乗られるということは、私たちの救い主イエス様がどれほど柔和で、へりくだったお方であるか、平和の王であられるかが伺えます。このイエス様の行動は、公式にユダヤ人の前に、ご自分を救い主として現されたものであり、それは同時に旧約聖書の預言が成就した時でもありました(イザヤ62章11節、ゼカリヤ9章9節)。
「ホサナ」は「今、救ってください。」という意味ですが、ここでは「万歳!」のような意味にもとれます。しかし、本当にイエス様を霊的な、内的な救い主としてお迎えできた人は、ほとんどいなかったかもしれません。