最初の部分の「ぶどう園のたとえ話」は19章27節のペテロの質問「私たちは何がいただけるでしょうか」に対して、イエス様が確かな報いを保証された(19章29節)後に、その天の御国の根本的な原理(19章30節、20章16節)をわかりやすく説明なさった部分です。
当時のユダヤ社会では、1日12時間働いて、1デナリの給料というものが平均的でした。早朝から雇われた人は、その「1デナリ」、9時からの人は「相当のもの」を上げると言われて雇われました。その後に雇われた人たちもいました。
夕方になり、給料が支払われる時になると、何と最後に雇われた人から呼ばれ、しかも1デナリをしっかりもらって帰りました。早朝から働いた人たちの番になり、当然、それ以上もらえると思ったのですが、何と1デナリでした。彼らが主人に抗議した時、主人は「不当なことはしていない、ただ気前をよくしたいのだ」と答えました。
このたとえを通して、イエス様は自分たちの功績を誇ろうとしていたペテロ(19章27節)に、神はその働きの分量に応じて人を扱うのではなく、与えられた機会に素直に神の恵みに応じる人を、等しく扱われることを示されたのでした。
次の部分はイエスさまの受難予告と言われる部分です。ここは予告の3回目(1回目:16章21節、2回目:17章22〜23節)ですが、これまで以上に詳しく予告されています。だれから、どんなことをされ、だれによって十字架にかけられるかが語られています。同時に、復活の希望に向かって、イエス様が力強く「向かって」行かれる様子をうかがうことができます。