小さい者への配慮について語ったイエス様は、ガリラヤを去り、ヨルダンの向こうにあるユダヤ地方へ向かいました。そこへパリサイ人が、「離婚が、律法から見て合法的か否か」について尋ねます。イエス様が律法をどう解釈するかによって、いかように批判することもできるからです。これに対し、イエス様は創世記を引き合いに出して、人が自分勝手に離婚してはいけないことを断言しました。引き下がらないパリサイ人は「律法に、離縁状が存在する(申命記24章1〜4節)理由」を尋ねます。イエス様は「名実伴わない立場においやられた妻」を見たモーセが、そういう状況に追い込んでいる人たちのかたくなさを見て、「離婚」について定めたことを説明しました。ですから、「何か理由があれば、離婚できる」という下心を抱くのは本末転倒であり、それこそ「心がかたくな」な表れなのです。
これには聞いていた弟子たちですら、「結婚しないほうがまし」という本音を吐露してしまいます。当時、いかに、「離縁状」が「妻」にとって配慮に欠けた使われ方をしていたか、伺い知れるところです。また、そういう配慮のなさが表されているのが、13〜15節にある「子どもへの祝福」です。イエス様に祝祷してもらおうと、子どもたちが連れてこられたのを見て、弟子たちは叱り飛ばします。しかし、イエス様は「天の御国はこのような者たちの国」と語り、子どもたちを祝福しました。マタイ18章3節で、同じようなことが言われていましたが、イエス様は、ここで改めて語るのです。
そこへ、ひとりの青年がイエス様のもとにやってきて、永遠の命を得る方法・・・言い換えれば「天の御国に入る方法」を尋ねました。問答の末、律法を完全に守っていると自負する彼に、イエス様は、「全財産を売り払って貧しい人に施し、わたしについてきなさい」と語ります。多くの財産を持っていたこの青年は悲しみながらこの場を去りました。「富は祝福」ととらえてきた弟子たちにとって、この出来事と、その後にイエス様が語った「金持ちが天の御国にはいるのは難しい」という言葉は、驚き以外の何物でもありません。
ペテロは、「私たちは、何もかも捨てて、あなたに従ってまいりました」と語ります。しかし、この高慢な言葉も、主の「先の者があとになり、あとの者が先になることが多い(30節)」という言葉で、砕かれてしまいます。ここで、振り返りましょう。「それでは、だれが救われることができるでしょう(25節)」。主は答えました。「人にはできないことです。しかし、神にはどんなことでもできます(26節)」。心がかたくなだったり、配慮がなかったり、高慢だったりと、救われる素質のない私たちを、主が一方的にあわれみ、救いの道を示してくださいました。そのために、主は全てを捨てたのです。