前回、小さい者を見捨てない神の慈しみが記されてありました。その慈しみを知らされた者は、それゆえに、誰かが罪を犯した場合に、どう接するべきかが、この箇所に記されてあります。最初は一対一で、次は証人を連れて、それでもダメなら「教会」を通して・・・と、あくまでも「悔い改め」の機会を与えようという気長な姿勢です。それは、前回見た、1匹の羊を見捨てない神の愛ゆえに(18章12〜13節)、罪を犯した1人の人が、そのまま罪の深い淵に落ちていくのを、見捨てることがないようにという配慮なのです。
イエス様の話を聞いたペテロは、「何度まで赦すべきでしょうか。7度まででしょうか」と尋ねました。当時は「3度までは赦す」というところで十分信仰深いと判断していましたから、この「7度まで」という言葉は、あながち少ないものではありません。ところが、イエス様は「7度を70倍するまで(7は完全数であり、7の70倍とは、無制限を暗示する)」と語り、それを譬え話で説明しました。
10,000タラント(当時のパレスチナで60,000,000日分の給料)の借金がある「しもべ」が、主人である王のあわれみの故に赦され、借金を免除してもらいます。王は神の比喩であり、「しもべ」はまさに「神に罪を赦された人間」の姿なのです。さて、赦された「しもべ」は、同じ「しもべ仲間」で自分が100デナリ(当時のパレスチナで100日分の給料)の金を貸している者と出会うと、その者を牢に投げ入れてしまいます。このことが王の耳に入ると、王は怒り、「しもべ」は牢に入れられてしまいました。
譬えの終わりは、こう閉じています。「あなたがたもそれぞれ、心から兄弟を赦さないなら、天のわたしの父も、あなたがたに、このようになさるのです(35節)」。もし、本当に神に赦されているとわかっているならば、赦せるはずであり、赦せないでいるのは、自分が神に赦してもらっていると分っていないと、迫るのです。何と、厳しい言葉でしょうか。
人は、神から受けた愛ゆえに、仲間が罪を重ねるのを見過ごしてはいけません。そして同時に、神から受けた愛ゆえに、悔い改めのチャンスを与えることなく赦さないでいることも、あってはならないのです。私たちの主人であり、王である神が、私たちを赦してくださった今、「しもべ仲間」に対する配慮が信仰者には求められています。