17章24〜27節にある「宮の納入金問題」と、18章1〜14節の「天の御国ではだれが一番偉いか」という話は、「つまずき」という言葉でつながっています。
「宮の納入金」は、20歳以上のユダヤ人男性が毎年納めることになっており(納入金額は、当時のパレスチナで2日分の労働賃金)、人口調査をする時、災いがその身に降りかからないように、「命のあがない代」として徴収されていたものでした(出エジプト30章12〜13節)。神の御子であるイエス様に、父なる神の宮の納入金を支払う義務はないのです。にもかかわらず、イエス様は、あえて納入します。それは「かれらにつまずきを与えないため」と語っています。イエス様が、このように他者に「つまずき」を与えないように配慮なさっているのならば、イエス様に従う私たちもまた、他者をつまずかせない歩みを心がけることは、言うまでもありません。
これに続いて、18章1〜14節は、信仰者が他者に対し持つべき「配慮」について記されてあります。「そのとき(18章1節)」とあるように、この話の流れで、弟子達はイエス様に「天の御国では、だれが一番偉いのでしょうか(2節)」と質問しました。イエス様に支払う義務がないのは先刻承知のこととはいえ、イエス様に従っている自分たちの立場が気になるところだったのでしょう。そんな弟子たちに、イエス様は小さい子を呼び寄せて、「子どもたちのようにならない限り、天の御国には、はいれません(3節)」と語ります。
皮肉にも天の御国での順位を気にしていた・・・つまり、ちゃっかり入るつもりでいた弟子たちにとって、「〜ない限り、御国に入れない」というフレーズは、衝撃的です。しかも、一番立場の弱い「子ども」のようでなければならないと言うのです。何か努力や修行の結果たどりつくものではありません。その上、6〜10節を見ると、そのような「小さい者」に、「つまずき」を与える者に対する厳しい言葉が述べられています。たたみかけるように、12〜13節に記されている「迷子の羊のたとえ」は、迷子になった1匹の・・・すなわち、「小さい者」の価値は、神の前に損なわれる事がないことを保証しています。
「つまずき」について配慮する背景には、「神の慈しみ」が存在します。神が、その者たちを慈しんでおられるという慰めがあるのです。小さい者、小さくされている者を愛する神の愛は、私たちに注がれています。その愛が注がれているからこそ、私たちもまた、他者を傷つけたり、その価値を損なわせたりするような罪と、戦う必要があります。