「それから6日たって(1節)」・・・すなわち、イエス様が受難の予告をしてから6日後、イエス様はペテロとヤコブと、その兄弟ヨハネをつれて高い山に行きました。3人の弟子は、その山でモーセとエリヤという旧約時代の信仰者たちが現れて、光り輝く姿になっているイエス様と語るのを目撃します。モーセは律法(創世記〜申命記)をまとめた預言者であり、エリヤは「メシヤ(キリスト)」が来られるときに先駆者として現れると約束されていた預言者(マラキ4章5〜6節)です。この2人は旧約聖書の象徴と言えます。
そこへ、かつてイエス様がバプテスマを受けたときにくだってきた言葉(マタイ3章17節)、「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ」という神からの声がしました。バプテスマのときと違うのは、「彼の言うことを聞きなさい」という命令が、弟子たちに示されたということです。しかし、3人の弟子たちは恐れるばかりです。
イエス様と3人の弟子たちが山を降りると、悪霊にとりつかれて苦しむ子と、その子を癒せないでいる弟子たち、そしてそれを興味本位に見ている人たちが待っていました。輝くイエス様の姿、栄光の姿・・・その素晴らしい出来事を経た後、山を降りてみれば、たとえようもない現実が待っていたのです。実に、信仰者は、このたとえようもない現実の世界において、イエス様の言うことを聞き続けるように招かれています。私たちは、夢のような信仰の世界で生きているのではありません。この現実の中で、歩いているのです。そして、その中で、主に従い続けるよう日々召されているのです。
昨日の箇所が、「ペテロの信仰告白と、その後の失態」について書いてありましたが、ここでは、高い山での輝かしい出来事と、下山後に待ち伏せていた『弟子たちの失態』」が出ています。そして、昨日と同様に、弟子たちの失態の後、イエス様は2度目の「受難の予告」をします。栄光の主が、山を降りてきたのは十字架にかかるためでした。そして、その十字架は、自分では自分を救うことが出来ない私たちのためだったのです。