前日の箇所で、カナン人の女性の願いを聞き届けたイエス様は、それからガリラヤ湖に向かいました。やがてイエス様に助けてもらおうと大勢の人が集まってきます。既に3日も自分の傍を離れない人たちを見て、イエス様はマタイ14章17〜21節で起した奇蹟と似たものを行いました。似た奇蹟にもかかわらず、前回イエス様の奇蹟を見たはずの弟子たちが、今回もまた困惑しています。
単に、前回の奇蹟を忘れてしまったわけではありません。前回は、ユダヤ人たちの多い地域でした。今回は、おなじみのガリラヤ湖とはいえ、異邦人の多い地域だったようです(マルコ7章31〜37節参照)。選民意識を持っていた弟子たちは、前回の箇所でカナン人の女性にイエス様が示した奇蹟を見てもなお、その真意を悟っていませんでした。「このへんぴな所(33節)」で奇蹟が示されることなど、期待していなかったのです。
さて、この出来事の後、パリサイ人とサドカイ人(パリサイ人とは敵対関係にあったグループ。パリサイ人と違って、復活や言い伝えの価値を認めていなかった)が、イエス様の言葉尻をとらえようとして、やってきました。普段は仲の悪い2つのグループが、こういうときに限って肩を並べてくるあたり、彼らがいかにイエス様を憎んでいたかが伺えます。何しろ、質問の内容もマタイ12章38節で一度出している質問です。そんな彼らに、イエス様は、前回と同じようなことを答えました。彼らと別れた後、イエス様は弟子たちに「パリサイ人やサドカイ人のパン種」すなわち、「彼らの教え・彼らの信仰のあり方」に気をつけるように語りました。
ところが、弟子たちは自分たちが先程の奇蹟の「パン」を持ってくるのを忘れたことを注意されたと、曲解してしまいます。パリサイ人にしろ、サドカイ人にしろ、そして弟子たちにしろ、自分の汚れ・・・いわゆる罪について、しっかりと認識していないのです。罪は、「パン種」にたとえられているように、当人たちには些細なことでも、いつかは膨らんでしまいます。気をつけるべきは、そのパン種が自分の中にあることなのです。それは自分たちが気にしていないところで、着々と膨らんでしまうのです。
最後に。今日の箇所には、イエス様の厳しい言葉の背後に、空腹な人たちを見て心を痛め、パンの奇蹟を示す姿が際立っています。厳しさの背後に、神の祝福が裏打ちされているのです。ここに、私たちへの慰めが示されています。