あらゆるところで活動するイエス様を見て、快く思わない人たちがいました。既に何度か登場している、パリサイ人や律法学者です。「パリサイ人」とは、当時のユダヤ教最大のグループで、律法について厳格に解釈している人たちでした。また「律法学者」は、パリサイ人に所属していて、律法について研究し、教える立場にあった人たちでした。彼らにしてみれば、何度も自分たちに都合の悪いことばかりを言う「イエス」を、このまま野放しにしておくことは出来なかったのです。
彼らは、揚げ足をとろうと、自分たちの本拠地エルサレムから、わざわざイエス様のところまでやってきて、「食前に手を洗う(衛生上の清潔さではなく、『信仰の上での聖さ』が理由)」という「言い伝え(先祖たちが作った規則)」を、イエス様の弟子たちが守っていないことを咎めました。当時、旧約の律法とは別に、このような規則がパリサイ人や律法学者によって重要視されていました。イエス様は、彼らが「言い伝え」を守ろうとするあまり、神の御心に反したことを行っていることに気づいていないことを指摘します。自分の内側の罪に気づかず、口から汚れたものが入ることで、自らの身が汚れることにばかり気をする方が、はるかに始末が悪いからです。
この後、イエス様はツロとシドンの地方へ行きました。そこで、娘の癒しを求めるカナン人の女性と出会います。彼女は当時のユダヤ人(とりわけ、パリサイ人や律法学者)の感覚からすれば、「異邦人の女性」つまり、「汚れた人間」です。彼女に投げかけるイエス様の言葉も、どこか冷淡にすら見えます。ところが、彼女はそれに引き下がらなかったのです。「本来ならば、自分は救いがたい犬のようである」と認めた上で、イエス様に助けを求めました。彼女の信仰は、冒頭のパリサイ人や律法学者には、ないものでした。イエス様は、そんな彼女の願いを聞き届けるのです。
「自分たちは聖い」と自負していた人たちが、神の御心に反したことを行い、彼らが「汚れている」と評価していた女性のうちに、「自分の汚れ(罪深さ)」を認める信仰がありました。そして、彼女のもっていた信仰こそが、御心に添った信仰だったのです。