天の御国を見出した人は、畑に隠された宝のようです。その宝を確実に自分のもととするため、持ち物を全部売り払っても、その畑ごと手に入れます。あとでそれが自分の手元から奪い取られたり、権利を主張されたりしないためです。その宝の価値がどれほど計り知れなくて、今支払うべき自分の財産分など、それに比べたらいかにちっぽけでつまらないということを知っているからです。中途半端は一番痛い!お正月の初売りで電気屋さんに並んで、自分の番号の直前で売切れてしまったくらい、痛いです。いや、そんなことと比べ物にならないものを、私たちは今、手にしようとしているところです。生涯全力をかける意義のあるものであり、いかなる苦労さえちっぽけに思えるものに私たちは手をかけつつあるのです。何が価値があり永遠に残るものでしょうか?何がつまらなく一時的であり、過ぎ去ることでしょうか?今日私たちは何に取り組むべきでしょうか?
天国学者の皆さん、宝を手に入れつつある皆さん。あなたが主人です。古いものも新しいものも、みなあなた方のものです。私たちはもう罪の奴隷ではなく、律法の奴隷でもありません。古くからの契約は、このキリストによって実現し、律法は、私たちが神の子として歩むためのガイドとなり、キリストがもたらした福音は、私たちに主の道を歩ませる力となります。キリストとの出会いは、私たちに新しい生き方をさせるのです。もう罪に縛られてはいけません。また形式だけの信仰生活に縛られてはいけません。神の子の皆さん。いただいた自由とガイドと力をもとに、今日、私たちは歩もうではありませんか。
「キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい」(ガラテヤ5章1節)