天の御国について、他にもイエス様はたとえでお話になりました。
神様はこの世界に神の子とされた人々をまかれました。キリストによって命が流れ、多くの実を結ぶようにされたのです。それに対してサタンも、神の御業を妨害するために、毒麦をこの世界に蒔きました。
しかし、主はそれを伸びるがままにされました。なぜでしょうか。本当の御国の子らも刈り取ってしまうことがないように、です。間違えるというよりも、本当の実を見るために、あえてそれを許されるというのです。やがて裁きの時が来ます。全ての実りはそこで判別され、毒麦は焼かれ、麦は倉におさめられるのです。
この地上にあって、神の子とされた人々も、そうでない人々も、同じように生活しています。同じ良いものを求め、同じ苦しみを味わい、同じように歩んでいるかに見えるでしょう。ときにこの地上にあって、悪者の行いに対する報いを正しい者がその身に受け、正しい人の行いに対する報いを悪者がその身に受けることがあります(伝道者の書8章14節)。ときに本当にむなしさを感じ、神を恐れる生き方に対して、この世と同じようにさげすみを覚えることもあるかもしれません。
しかし、忘れてはいけません。「すべては神の御業である」のです。主は御国の子らのため、忍耐されているのです。その際たる方こそキリストです。何の罪もなく、かえって真実に生きたがゆえに迫害され、殺されました。多くの預言者たちもそうです(ヘブル11章)。私達はこのキリストにならうものであります。むしろ不条理に思えることを体験したなら、躍り上がって喜びなさい、天の御国はその人のものだから!(マタイ5章10〜12節)とまで薦められているのです。私たちの忍耐には報いがあるのです!
では、私たちは何を思うべきでしょうか。誰が毒麦なんてまだわからないのです!正しいことを求めても、報いのない人たちに、この方の希望を分かちあえないでしょうか?イエス様が歩まれたように、天の御国の福音を分かち合いつつ、人生の価値の尊さを、どのような形でか、分かち合えないでしょうか?それこそ主の財産である命ある麦であります。自分が毒麦でないことを願うのみです。