第3水曜 マタイ13:1-23



【祈り】

[1] 主の祈り

【聖書通読のたすけ】

 イエス様が語られた有名な4つの種のたとえ話です。当時の種を蒔く人は、粗雑そのものだったようで、適当に手でばらまくので、色々な所に飛んで行ってしまいます。当時種を蒔いているというのは日常的な光景だったようです。種には命があります。外見的には乾燥していて死んでいるように見えますが、必要な環境があれば豊かな実りをもたらすものです。蒔かれた種は、落ちた土壌によって、その後を左右されることになります。このたとえはイエス様が解説されているように、神の御言葉を聞いた人々の反応にたとえられています。御言葉には命があります。必要な環境があれば、豊かな実りをもたらすものであります。さて、私達はどのように御言葉を聞いているでしょうか?

【1】 道端に落ちた種

 種が、畑のあぜ道や、脇の道に落ちた場合、鳥が食べてしまいます。そのように、御言葉の種が蒔かれているのに、根を張る間もなく悪魔がそれを持ち去ってしまいます。これは悟らない人にたとえられています。

【2】 岩地に落ちた種

 土の薄い岩地に落ちた種は、太陽の熱を受け、すぐに芽を出したようです。これは御言葉をすぐに喜んで受け入れる人にたとえられています。すぐに喜んで受け入れるなんて素晴らしいと思いませんか?しかし、自分のうちに根がないため、みことばのために困難や迫害が起こるとすぐにつまずいてしまいます。浅い土の下にあったのは、硬い岩だったのです。浅はかさの下に、硬い心が眠っていないでしょうか?果たして自分のうちに根はあるでしょうか?私たちは『沈黙』に出てくる5時間の拷問で棄教したフェレイラ神父を笑うことができるでしょうか?

【3】 いばらの上に落ちた種

 いばらの上に落ちた種は、見かけ上は良い地に似ているのですが、いばらの根が残っています。やがていばらの方が早く成長して覆ってしまう様がたとえられています。いばらに象徴されるこの世の心遣いと富の惑わしは、一旦捨ててきれいになったつもりでも、その根っこから何と早く成長して、私達の信仰をくらませることでしょうか。

【4】 良い地に蒔かれた種

 幸いなるかな!良い地に整えられた人々!耕す方が目を注いでくださり、畑と見なして、鳥から守り、堅い岩を取り除いて開墾し、いばらの根っこを引き抜き、豊かな実りのために情熱を注がれている人々よ!多くの人はこの救いを待ち望み、このキリストを、本当の救いを目にしたいと願いましたが、実現しませんでした。今日私たちはこの救いのうちを歩ませられているものです。自分の努力でそのように歩んできたのではありません。もちろんそれもあるでしょうが、その源の源はキリストの恵みにあります。この方が開墾してくださって、今日私たちは主にあるものとして数えられているのです。

 ゆえに、私たちは今日、どのように御言葉を聞くべきでしょうか?不注意に、同じことの繰り返しのように硬い心で受け止めてはいけません。新しい恵みを、私たちを導いてくださっている主に期待すべきです。喜んで受け入れ、すぐに枯らすべきでしょうか?根を張る土の下にかたくなな岩があることを仮定して、主に悔い改めを持って取り除いていただけるよう願い続けるべきではないでしょうか?見かけ上良い地であるかように受け止め、安心するべきでしょうか?いばらの成長は早いのです。今日何に心がふさがれているのか、主にご覧いただくべきではないでしょうか?それが良い地であり、豊かな実りにつながるよう、恐れを持って、生涯、主の恵みを待ち望み続けようではありませんか。


【信仰告白】

[2] 使徒信条