「病気を治したり、悪霊を追い出したり、死人を生き返らせたり、取税人や遊女たちがつき従う。一体このイエス様というのは何者だ?」という質問は、最近に始まったものではありませんで、イエス様の現役当時こそまさにその渦中にありました。
イエス様のもとに、悪霊につかれた、目も見えず、口も聞けない人が連れて来られました。イエス様が彼をいやすと、人々は驚き、「この方はダビデの子(救い主。第二サムエル7章5〜16節、イザヤ9章7節、詩篇132篇)なのだろうか?」とささやきました。そのとおり!なんですが、パリサイ人たちは以前(マタイ9章34節)と同じようにささやき始めます。「あいつは悪霊どものかしらベルゼブルの力で、部下の悪霊どもを追い出しているだけだ」と。
私たちを悪魔の力から救いに来てくださった神の子、救い主を捕まえてとんでもないことを言っています!これにはイエス様はきっとお怒りになったことでしょう。「だったらあなたがたの仲間の魔よけ祈祷師は誰によって悪霊を追い出しているのですか?悪霊払いがそのように行われているのであれば、あなたの仲間もそういうことになるんじゃないですか?しかし、もしわたしが本当に神の御霊によって追い出していたなら、もう神の国が来ているってことですよ!!木がよければその実も良い、実によってわかるでしょ?」
本当はここで裁きがあってもおかしくないシチュエーションです。「あなたがた裁くよ、悔い改めなさい!」と。イエス様はなおも彼らを導こうしてくださっているのがわかります。悔い改めない、聖霊に逆らう冒涜は赦されません。しかし、イエス様は人々を悔い改めに導いてくださる方であります。
すると、パリサイ人たちのある者たちはまた屁理屈を言い出します。「じゃあしるしを見せてくださいよ!」って、今悪霊が追い出され、目も見えない人が見えるようになり、口のきけない人が話せるようになったばっかりなのに!彼らはもっと大きなはっきりしたしるしがほしい、と訴えるのです。
私たちは目に見えることが大好きです。しかし目に見たものさえも、私たちの心は信じない。しるしがあるから人生変わるか?いや、どんな奇蹟を何回見たとしても、どんな体験を何回したとしても、それが私たちの心に何ももたらさない。本当の問題は、私たちの信じない心にあるのです。すぐに不満をつぶやき、これは私の告白ですが、奇蹟を強調する人々を悪魔のわざかもしれないと裁いたりもし、何か落ち度があればほれ見たことか、とあざ笑い、人の幸いも偶然のわざのように見なし、自分の納得を求め、自分への奇蹟を要求する私たちも、彼らと同じようではありませんか。イエス様は良くご存知です。
イエス様に注目するように。目に見えない、しかし実現している約束を信じるように。主は奇蹟を起こしてくださいます。大きなことを祈るように招かれています。
しかし、それを信仰によって見るのでなければ、どれほどの体験も、私たちの信仰を腐らせることにしかつながりません。もっともっと要求し、満足を知らず、与えられてきた恵みに感謝することもなく、日々過ごすことにつながるでしょう。
今日私たちは主に目を注ぎ、約束の言葉、聖書に目を注ぎ、その日々与えられている祈りの答えの数々に目を注ぎましょう。今日私たちが目に見えない神を信じている事実こそ奇蹟であります。罪深い私たちが今日死んでも天国に入れることこそ、本当の奇蹟であります。イエス・キリストが十字架によってもたらしてくださった救いの実現こそが、パリサイ人と同じ傾向を持つ滅びの子である私たちが神の子とされた事実こそが、私たちの奇蹟の現実なのです。
聖書を見てください。歴史を見てください。日常生活を見てください。主は私たちの祈りに、適切な時、適切な答えをくださり、「奇蹟だ!」と思うようなことを何回も経験してきたのではないのですか?他のクリスチャンからもそんな話は聞きませんでしたか?毎日は奇蹟の連続です。まだ不平をつぶやきますか?