人間にとって安息は大切です。もし人間が休みなく働いた場合、病気になりますし、「はたらきすぎ」は過労死してしまいます。安息は神様が定めてくださった私たちを守るための律法であります。「安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ」(出エジプト20章8節)。
しかし、かといって引きこもりなどに見られるように、休んでいるようにみえる人が、本当に休まっているかどうかというと、そうではないでしょう。また日本の自殺者の内訳で、60代以上が3分の1を占め、無職の方が半数を占めていることも、注目に値します。人間に必要なのは、単なる肉体的な休みだけではありません。もちろん肉体的な休養は大切ですが、人間は、精神的にも、霊的にも、全人的な、目的ある休みを必要としているのです。
では、何が私たちを休ませるのでしょうか?自分で休みを休みと認識しようとしても、それすらも難しい、弱い私たちです。私たちを休ませるのは、神からの平安であります。マタイ11章28節の招きに従って、キリストのもとに重荷を下ろすことであります。恵みによる信仰が、私たちに本当のいやしと平安をもたらすのです。それは時に肉体的、精神的な疲れの中にあってでさえ、また様々なプレッシャーや、逆境の中にあってでさえ、奇蹟のように、私たちを霊的にいやすものであります。神が私たちを心配してくださっている(第一ペテロ5章7節)、この難しい状況には意味がある(ヘブル12章5〜11節)ということは、聖書の約束にあるとおり、私たちにある現実です。それがどれほど困難に見えて、いくら私たちにとって受け止めにくいことであっても、アップダウンのある私たちの感覚より、変わらない神様の約束のほうこそ信憑性があるのではないでしょうか?(イザヤ40章6〜8節)
事実は事実です。この約束を覚えて、私たちは神と共に過ごす安息を、キリストの赦しを受け、罪の重荷をおろし、深く楽しみ、味わい、喜ぶべきです。罪人であるのに、神に取り分けられた(聖とされた)者、聖徒として数えてくださり、今日も主の民として招かれているという、主の憐れみ深さを覚え、パーティーを開くべきです!(使徒2章46〜47節) それが礼拝であります。
その安息日に、イエス様の弟子たちはお腹がすいて、穂を摘んで食べ始めました。他人の畑であっても、鎌で刈ったりしたら盗みにあたりますが、手で摘む分は律法で定められた困った人への配慮ということで、合法でありました。ですので、パリサイ人はその点を責めたのではありません。彼らは「『穂を摘んで』それを『もみだして』食べることは2つの労働にあたり(タルムード)、本来安息日の前日までに整えておくべきこと(出エジプト16章23節)であって、安息日にしてはならないことである」と主張したのです。要するに、彼らは律法を破っているじゃないか!というのです。
しかし、そんな彼らをイエス様は諭します。「ダビデの例外があったように、飢え死にしそうな人への憐れみは認められているじゃないか」 本来備えのパンはイスラエル十二部族を表す神聖なささげ物であり、1週間供えた後は祭司たちだけがそれを食べることが許されていました(レビ24章5〜9節)。ところが、飢えたダビデに対して祭司アヒメレクはそれを与えたのです(第一サムエル21章6節)。主の律法は、人を生かすためであって、決して人を殺すためではない、と、当時のパリサイ人たちも理解していました(タルムード)。また、特別な事情で安息日の前日に用意できなかった人のために、安息日であってもパンやぶどう酒、油を貸すことは許されていたのです(イザヤ58章10節)。
さらに、イエス様は続けます。「また、安息日には宮に仕える祭司たちは礼拝の準備のために働くべきであり、安息日の神聖を冒しても罪にならないじゃないか」 彼らが働くべきことは律法(出エジプト27章21節以降)で規定されており、当時も祭司たちはそのように働いていたのです。
これらのことはパリサイ人にとって当たり前でした。現代を生きる私たち以上に正確に、完全な理解があったことでしょう。では一体何が問題だったのでしょう?
その問題の本当の争点は、イエス様の答えのうちに現れています。「あなたがたに言いますが、ここに宮より大きな者がいるのです」 イエス様はご自分があのエルサレム神殿より大きく偉大であることを主張されています。神殿は神ご自身がおられる天国の写しに過ぎません(ヘブル8章5節)。人間の作った宮などに住めるはずがありません(使徒7章48節)。それでも神様は約束の民と共に住んでくださる、という約束の現われとして、神殿を礼拝の場所とし、それを通して人々にご自身をあらわしてくださいました。しかし、それは模型のようなもので、本体ではありません。本体は何でしょうか?キリストです(ヘブル9章)。神ご自身が、地上に、ご自身の愛と恵みを現すため、人々の間に住まわれる、それはキリストが肉体をとって来られた、ということで実現したのです。まさにキリストこそ神殿の本体であられ、キリストこそ祭司に仕えられ、人々に礼拝されるべき方、まことの神ご自身であられるのです。
しかし、これがパリサイ人には気に入らなかった!弟子たちはキリストを主とし、神に仕えるがごとく祭司気取りで仕えている、お前らは一体何様だ!安息日の律法すら守ろうとしていないじゃないか!というのが、本心にあったのです。
そんな彼らにイエス様は主張されます。ご自分こそが仕えられるためではなく、仕えるために来た、神であり、宮である、と。安息日にも休むことなくこの世界を支え、人々の必要を満たし続け、あなたがたに安息を与えるために仕えに来た、救い主である、と。あなたがたも本当の休みを、私から受けなさい、と主張されているのです。
「『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない』ということがどういう意味かを知っていたら、あなたがたは、罪のない者たちを罪に定めはしなかったでしょう」(7節)
私たちにとって安息日は安息の時でしょうか。私はすぐに心が義務感や奉仕でいっぱいになってしまいます。自分でやること、自分の目に見える必要、自分が取り組まなければならないこと、自分、自分、自分、で、神様を礼拝するために招かれて来たのに(もちろん自分の足で来るのですが、信仰があるということは特別な恵みであり、自分の内側から出てくることでは決してありません!)、愛も恵みも注がれているはずなのに感じずに礼拝から帰ることがしばしばあります。自分にフォーカスしすぎです。しかし、私たちがもし、イエス様に目を注ぐなら、なんと全ての物が新しく映ることでしょうか!奉仕や献金はいけにえではなく喜びと感謝のささげ物に変わり、神様からいただいている多くの憐れみへの気づきは、他者への憐れみに変わることでしょうか!今日、私たちに必要なのは、この罪深い、自分中心な私たちを救うため来てくださった、イエス様ご自身です。主よ、私の曇りがちな信仰の目を、今日また開いてください。あなたの大いなる恵みの数々に気づかせ、新しい心で感謝を持って御許へ近づくように、私を作り変えてください。