バプテスマ(洗礼)のヨハネ(マタイ3章)は、天の御国の到来を知らせ、神への悔い改め(ルカ3章7〜18節)と洗礼(ルカ3章3節)を人々に説いた、すぐれた人物(11節)でありました。彼の出現はこの時代から遡ること700年、旧約聖書イザヤ書に預言されており、彼の人生の目的は「主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐに」(マタイ3章3節、イザヤ40章3〜5節)することであり、「こうして、あらゆる人が、神の救いを見るようになる」(ルカ3章6節)ためでした。つまり人々の心を神に向けさせ(マラキ4章5〜6節)、救い主イエス・キリストによる罪の赦し、神の救いを人々が自分のものとして受け取ることができるように、キリストが来る準備をすることでありました。洗礼は罪を告白して悔い改めた人を水の中に浸ける、もしくは水を注ぐことによって、神がその罪の告白を聞き入れ、罪を洗い流し、赦してくださったことを象徴しています。彼の働きは目覚しく、エルサレム、ユダヤ全土、ヨルダン川沿いの全地域の人々が(マタイ3章5節)彼のもとへ行き、自分の罪を告白して洗礼を受けたほどでありました。また罪を犯したことのないイエス様ご自身も、私たちの代わりに完全に正しいことを全うするために(マタイ3章15節)、ヨハネから洗礼を受けられたのでした(マタイ3章13節)。
しかし、そんなヨハネが逮捕されます(マタイ4章12節)。人間は時に真理を喜びません。人間は生まれ持っている自分の罪を認めたくないものです。自分を正当化し、ごまかしておきたいことがあるものなのです。私たちと同じように当時の権力者ヘロデ・アンティパスもその一人でありました。ヘロデはヨハネに「兄弟ピリポの妻ヘロデヤをめとったことは不法である」と罪を指摘されたことが気に食わず、彼はヨハネを捕らえ、牢に入れたのでした(マタイ14章1〜12節)。
ヨハネは、「自分のこの先は長くないかもしれない」と感じたのでしょうか。弟子たちをイエスのもとに遣わして聞きます。「おいでになるはずの方は、あなたですか。それとも、私たちは別の方を待つべきでしょうか」(3節)。救い主の道を備えるため、自分の命の危険を冒してでさえも真理を人々に伝え続けてきたヨハネにとって、その集大成とも呼べる質問でしょう。
しかし、ヨハネはイエス様に洗礼を授けたとき、彼はイエス様の上に聖霊が鳩のように下るのを見、「その方こそ、聖霊によってバプテスマを授ける方である」と「私を遣わされた方」(ヨハネ1章33節)神に示され、「私はそれを見、それで、この方が神の子であると証言して」(ヨハネ1章33〜34節)きました。「見よ。世の罪を取り除く神の子羊」(ヨハネ1章29節)とイエス様を呼んだヨハネでした。それなのに、彼は不安になったのです。不安の理由は推測するしかありませんが、一つは自分の死期が近いかもしれない、という恐れ、また耳にする「悪霊どものかしらを使って、悪霊どもを追い出しているのだ」(マタイ9章34節)という人々の噂話かもしれません。
また、バプテスマのヨハネは信仰に基づき「食べも飲みもしない」スタイル、イエス様は福音のため「食べたり飲んだり」しました(18〜19節)。新しい教えだ!という人々の反応も拍車をかけたのかもしれません。バプテスマのヨハネに限ってはそんなことがないかもしれませんが、信仰のスタイルの違いは時に不安を呼び起こします。自分は断食して祈るのに、なぜイエス様は取税人の家で食べたり飲んだりされるのか?とヨハネ自身からでなくとも、ヨハネの弟子たちがイエス様とヨハネを比較していたこと(ヨハネ3章25〜26節)から、彼らにイエス様を指し示すための確認としてそのようにしたのでしょうか。私たちにも同じ傾向があるのではないでしょうか。他のクリスチャンと比較して、自分が信仰に基づいてやっていることが他のクリスチャンと違ったりすると不安になったりします。前は神様から確信をいただいた、しかし、私たちは揺らぐものです。
そんなヨハネからの使者にイエス様はこのように告げます。「盲人が見、足なえが歩き、・・・貧しい者には福音が宣べ伝えられているのです。誰でも、わたしにつまずかない者は幸いです」(5〜6節)。イエス様はそのような私たちを知っておいでです。そして確信をすぐに失ってしまう私たちに、何度もご自分を示し、導いてくださるお方です。私たちは人の噂や、反応ではなく、このイエス様からの励ましを必要としています。今日、この方に耳を傾けましょう。この方からの確証以外に、確かで、本当の平安を私たちにもたらすものはありません。
イエス様の言葉は続きます。その証言はバプテスマのヨハネに続き、ヨハネの目的、彼が彼の全生涯を通して指し示し続けてきたイエスご自身について、証言されます。「バプテスマのヨハネの日以来今日まで、天の御国は激しく攻められています。そして、激しく攻める者たちがそれを奪い取っています」(12節)
律法と預言者はバプテスマのヨハネまで。福音が来ました!イエスキリストです。この方による救いは大きく、大勢の人々に開かれました。天の御国を求める人々が殺到し、今まで除外されてきたはずの異邦人や収税人たちまでもが悔い改めて、キリストによって救いを自分のものとしているのです。待ち望まれてきた救いがキリストによって到来し、実現したのです!神の国が近づいたのです!しかし、約束の民であったユダヤの人々の反応はどうだったでしょうか。冷たく、無反応でした。多くの奇蹟を見た人々がいたはずなのに、悔い改めず、神を恐れず、一時的な盛り上がりだけで、また自分中心に戻ってしまったのです。イエス様はその町々を責め始められます(20〜24節)。私たちはどうでしょうか?多くの恵みを受けながら、同じようになっていないでしょうか?もう一度悔い改めをもって、主の御許へと歩みましょう。
神に選ばれた人々よ、イエス様と共に喜んでください。私たちが今日主を知っているとすれば、私たちは主に渡されたもの、キリストの財産であります。ゆえに、今日私たちが重荷を負っているとするなら、この方の御許におろすことができます。今日私たちが疲れているなら、この方の癒しを味わうことができます。私たちは罪人でありながらも、キリストの赦しの恵みのゆえに、福音のゆえに、大胆に神に求める権利があります。むしろ神の宝とされた者である、国民に数えられた者である私たちの義務ですらあります。キリストによってこの恵みは全ての人に開かれています!この方からの変わることのない平安をいただきましょう。