第2土曜 マタイ10:24-11:1



【祈り】

[1] 主の祈り

【聖書通読のたすけ】

 迫害の心得から、弟子の心得へと、主イエスの話は進みます。
 「人々が、わたしをベルゼブル(悪霊のかしらサタン)と蔑称するくらいなら(9章34節参照)、あなたがたは何と罵られるでしょう。そんなことでビビッていてはキリがありませんよ(24〜26節)。人間のできることなんて、せいぜい肉体を殺すぐらいです。たましいもからだも、ともにゲヘナ(永遠の刑罰がもたらされる場所)に投げ込む権能をお持ちの父(神)を敵に回すのと、どちらが合理的か、冷静に考えなさい(28・32〜33節)。それに、一羽の雀が地に落ちるか否かも、髪の毛一筋抜け落ちるか否かも、すべて父のあずかり知らないことではありません。であれば、わたしを信じる者が、父の知らない間に殺されることなど、あるでしょうか?あなたがたのいのちは、すべて父の最善の導きのうちにあります。だから安心しなさい(29〜31節)。そして、わたしのゼミで学んだことを、今度はあなたがたが出て行って皆に宣べ伝えなさい(27節)。たとえ、それによって家族から憎まれることになったとしても(22・34〜37節)、わたしの名を否んではなりませんよ。十字架を負ってわたしについて来た者に(38〜39節)、父は豊かな報いをくださいます。わたしの弟子を受け入れる者にも、同じように報います(40〜42節)」
 今日の箇所は難解な部分が多かったので、解釈を踏まえて言い替えてみました。

 ところで、もちろん主イエスは、家族関係をメチャクチャにするために来られたわけではありません(34〜37節)。キリストは平和の君(イザヤ9章6節)であり、「神を愛し、人を愛しなさい」と命じられました。また、「父母を敬え」という律法も、廃棄されてはいません(エペソ6章1〜4節、第一テモテ5章8節)。
 ただ、真の意味で人を愛することは、神を愛することのなかで初めて成立するものです。「神を愛するあらわれとして人を愛し、人を愛することによって神を愛する」という原則のもとでは、前提としての「神を愛する」が抜けると、「人を愛する」もありえなくなります。神から離れての愛は、実はサタンと罪とを愛する隠れ蓑になっているのです。「サタンを愛し、人を愛する」に変質してしまっているのです。その結末は家族もろともゲヘナです。
 だから、真に家族を愛するのなら、まず「神を愛する」を第一にすべき、と言えます。たとえ、一時的に家族と対立することになったとしても。最終的には、主に従う者に与えられる豊かな報いとして、必ず平和をくださると信じます。「あなたの家族も救われます」(使徒16章31節)という聖書の約束がありますから。

 最後にもう1つ、お聞きします。皆さんは大丈夫ですか?主イエスを人の前で認める者(32節)ですか?
 「大丈夫!」 ・・・そうですか、それはよかった。
 しかし、そういえば昔、こんなことを言っていた人がいます。「たとい、ごいっしょに死ななければならないとしても、私はあなたを知らないなどとは決して申しません」(26章35節)と。その人は結局、鶏が鳴く前に3度も「そんな人は知らない」と、しまいには呪いをかけて誓ってしまいました(26章74節)。
 自分の十字架(38節)を自分の力で負おうとしても、負えるものではない、と思い知らされます。「神の義」を祈り求める者に与えられる聖霊によらなければ。
 と同時に、主は、否んでしまったことを心から悔いる人に、再び歩むことができるよう、手をさしのべてくださるお方でもあることを、後の箇所から知ります。そのときに主が問われるのは、ただ一つ、「あなたはわたしを愛しますか」(ヨハネ21章17節)でした。十字架を負える能力ではありません。
 主に献身し、お従いするときに、主が問われるのは、へりくだって(42節の新改訳注*)、十字架の上であらわされた主のご愛に、応えるか否かなのです。

 それでは、改めてお聞きします。「あなたはわたしを愛しますか?」(ヨハネ21章17節)


【信仰告白】

[2] 使徒信条