マタイ福音書には5つの主イエスの説教が記されています。
【1】 山上の説教(5〜7章)
【2】 宣教派遣説教(10章)
【3】 神の国に関する説教(13章)
【4】 教会に関する説教(18章)
【5】 終末に関する説教(24〜25章)
これまでの主イエスは直接活動されるスタイルでしたが、10章からは、ご自身の姿を目の当たりにしてきた弟子たちを、十二使徒に任命し、派遣されます。
【ターゲット】
その派遣にあたり、まず、「今回はイスラエル(ユダヤ人)宣教です」と、ターゲット(ゴール)を明確にします(福音はすべての人に開かれているので〔使徒10章34〜36節〕、5〜6節は救いの恵みから外国人を排斥する趣旨ではありません)。
【メッセージ】
その上で、伝えるべきは「天の御国が近づいた」(7節)であると、主題を明確にします。主イエスと同じ宣教のメッセージです(4章17節)。
【スタイル】
さらに、スタイルも主イエスと同じです。対価を求めず(8節)、物的必要を心配せずに(9〜10節)、「天の父が養ってくださる」(6章26節)ことを信頼して行きなさい、と。これは、今まで見てきた主イエスの姿にならって、「イエス様ならどうする(WWJD=What Would Jesus Do?)」を胸に、「小さなイエス」として歩むよう命じられていると言えます。
そして、このように、主イエスのように歩み、主イエスのわざを行なう権威(1節)を授かった使徒(主イエスの全権大使)ですから、彼らを受け入れる家には平安が(13節)、受け入れない家には「ソドムとゴモラ」(創世19章1〜29節)よりも重い罰が(15節)、それぞれあるのです。
迫害があることもあらかじめ告げられます。しかし、蛇のように聡くあって(16節)、むやみに殉教することなく(23節)、むしろ証の機会(18節)として生かすように。そのときには、鳩のように素直に、聖霊が話すべきことばを教えてくださるのを待ち望みなさい(20節)、と述べられます。
ところで、なぜ「主イエスの名」(22節)は、迫害を引き起こすのでしょうか?「神の義」に生き、隣人を愛していれば、好意を抱かれこそすれ、憎まれることなどないはずですが・・・。
それは、日曜日の箇所で見ましたが、「神の義」は、己が愛のない罪人であることをも示すからだと考えます。「神の義」に生き、「神の義」を宣べ伝えることは、人の罪をもあぶりだし、「そのままでは天国に行けない」と断罪することになるのです。天国に入るには、へりくだって主イエスの十字架の贖いを受け入れるしかない。しかし、へりくだれない。だから、罪を突きつけるキリスト者を憎み迫害することになるのでしょう。
最後にもう1つ問います。では、ここまで周りの親しい人すらも敵に回すかもしれない迫害がある(21節)と告げられても、なお「主イエスの名」を信じ受け入れ、最後まで耐え忍ぶ者(22節)とは、いったい誰でしょうか?