長血(婦人病)の女性(20〜22節)も、開眼を求めた盲人(27〜31節)も、信仰をもって主イエスに近づき、その信仰のとおりになりました(22・29節)。他方、死んで物言わぬ少女(18〜19・23〜26節)と、悪霊憑きの物言わぬ男性(32〜34節)は、自力で来ることすらできませんでしたが、その人を想う周りの人の信仰によって(18・32節)、主イエスの癒しの恵みにあずかることができました。
長血にしても(マルコ5章26節)、死にしても、失明にしても、悪霊による言語障害にしても、どれも医療の限界を超えていました。けれど、主イエスのみもとに来た人たちは、「このお方ならきっと癒してくださる」と、ふさにもすがる思いで信じました。その信仰に応えるかたちで、主イエスはお癒しくださいました。その主の愛の交流に、癒された人たちはどれほど慰められたことでしょう。そして人々は、主イエスの奇蹟を驚きとともに言い広めたのでした(26・31・33節)。主イエスが禁じたにもかかわらず(30節)・・・。
ここで主イエスが噂を禁じたのは、「禁じられるほど言いたくなる人の習性を利用した」というより、素直に、みわざが誤って伝わることを防ぐためだったと考えられます。実際、パリサイ人たちは主イエスのことを悪霊マスターと捉え(34節)、そう言い広めていたでしょうから、群集に至っては・・・。軽率な噂の弊害を防ぐ必要性はあったと言えます。
とはいえ、天国の福音を宣べ伝え、癒しのわざをしていく(35節)働き人は、確かに必要でした(38節)。主イエスは、派手な奇蹟の表面だけを伝えるクチコミをお用いにはなりませんでした。けれど他方、次のような働き人の求人には、非常に積極的でした(今も募集中!)。求める人材は、「主イエスは、人として来られた神の子、私の救い主」と告白し、主イエスの十字架の愛に応えて「神の義」の恵みに生きる人。
私たちも、主イエスの祈りの課題(38節)を、ともに祈りたいと思います。