病の癒しに続いて、山上の説教で群集の感じた権威が、今度は、嵐を静め(8章23〜27節)、悪霊を追い出し(8章28〜34節)、罪を赦す(9章1〜8節)権威としてあらわされます。
弟子たちは、嵐を静めることのおできになる主権者、大自然のすべてを創造した主が同舟していたにもかかわらず、目の前の嵐に動転してしまいました。しかも、「助けてください」(25節)とすがりながら、まさか何とかなるとは思っていなかったのかもしれません。実際に助かってみると驚きます。
「風や湖までが言うことをきくとは、いったいこの方はどういう方なのだろう」(27節)という弟子たちの驚嘆に、皮肉にも答えているのは悪霊です。「神の子」(29節)と。これは後に、主イエスから「幸いです」と言われるペテロの告白(16章16節)と同じです。悪霊は、主イエスの権威を、弟子たちよりも深く肌身に感じ、恐れていました。けれど最終的には、弟子たちは天国に入れられ、悪霊は滅びへと投げ込まれる、この違いはどこにあるのでしょうか?
それは、「罪を赦す権威」(6節)を持っている主イエスが、こんな私の罪さえもお赦しくださる、と信じてみもとに来る点です。信仰をもって主イエスのみもとへと一歩を踏み出すかどうか、ただそれだけです。罪の赦しを信じてみもとに来るとき、主イエスはその信仰をご覧になって、「あなたの罪は赦された」(2節)と宣言してくださるのです。
「悪霊の告白と同じ」と述べましたが、実は違う点があります。ペテロは、「あなたは生ける神の御子キリストです」と告白しました。「あなたは神の子であり、そして私のキリスト(救い主)です」と。
主イエスのみもとに行くのに早すぎることはありません。「もう少し風邪がよくなってから医者に行きます」というのが変なように、「もう少し罪人でない、マシな人間になってから主イエスのみもとに行きます」というのも、おかしいのです。「定年退職してから、子育てが一段落してから・・・」 いえいえ、今すぐ! なぜなら、罪はそれほどに重篤だからです。
また、「私は医者であって、患者ではない」と言うパリサイ人のマネはしないでください。律法(聖書)を厳格に解釈し、敬虔に生きていると思っても(11〜13節)、主イエスの再定義された「神の義」に生きなければ、天国には入れません。それは、聖霊に導かれて歩まなければ不可能です。その聖霊(新しいぶどう酒)は、新しく生まれた人(新しい皮袋)のうちに住まれ、新しく生まれるには、主イエスのみもとに来るしかないのです。
ちなみに、9節の取税人マタイは、この福音書の著者と言われています。取税人は、ローマ帝国の徴税の手足をしていたことから売国奴扱いされ、また上前をはねる不正により罪人とみなされていました。その罪人すら救われることを、「驚くばかりの恵み(Amazing Grace)」を受けたことを、マタイは自分の隠したい過去をあえて明かすことにより証したのでしょう。この福音書を読む人が、主イエスのみもとに行かれますように、と願って。