ツァラアト患者、外国人、女性。癒しの恵みにあずかった三者は、いずれも当時のユダヤ社会から疎外されていた存在でした。山上の説教で語られた「神の義」の行為規範としての黄金律は、愛すべき隣人を限定しません(ルカ10章29〜37節)。それがどういうことかを、今度は実際に生きる姿によって見せてくださいました。「わたしの足跡に従いなさい」とおっしゃるように(ヨハネ13章15節)。
【1】 ツァラアトの病の癒し(1〜4節)
ツァラアト患者は、日本におけるかつての「らい病」と同様、社会的断絶のなかに生きていました。汚れた者として(レビ13章45〜46節)、町の外に隔離され(民数5章1〜4節)、人々が近づいて触れることも禁じられていました(レビ5章3節)。でも、主イエスはさわりました。彼を癒すために。社会的にも霊的にも、断絶からいのちへと移すために。
【2】 外国人の百人隊長のしもべの癒し(5〜13節)
百人隊長は、当時ユダヤを支配していたローマ帝国において栄誉ある職務でしたが、ユダヤ人にとっては、外国人の家に行くこと自体汚れた行為であり(参照:使徒11章3節)、外国人も忌むべき存在でした。でも、主イエスは行こうとしました。外国人の家にも福音を届けるために。天国の門が開かれていることを明らかにするために。
【3】 ペテロの姑の癒し(14〜17節)
女性は当時、神殿の外庭までしか入れない存在であり、個人として尊重されていませんでした。また、ユダヤ伝承では、妻以外の女性にさわることを禁じており、さらに熱病の人に触れることも禁じていました。でも、主イエスはさわりました。女性にも癒しの恵みの預言が成就することを明らかにするために。
律法の解釈によるユダヤ社会のツァラアト患者差別・外国人差別・女性差別について、その解釈の誤りを、主イエスは「神の義」に生きる姿をとおして示されました。
地上の属性ではなく、みこころを行なう者、神の子・救い主の権威とことばを信じ、「主は必ずあわれんでくださる」と信じて、主イエスのみもとに来る者に、天国の食卓は備えられるのです(7章21節・8章11〜12節)。主は、その人たちに、「わたしの心だ。きよくなれ」(3節)、「あなたの信じたとおりになるように」(13節)とおっしゃいます。