山上の説教の最後、主イエスは、「天におられるわたしの父のみこころを行う者」(21節)、「わたしのこれらのことばを聞いてそれを行う者」(24節)になりなさい、すなわち、黄金律に要約される「神の義」に生き、天国に入りなさい(21節)と強く勧めて、しめくくりました。
ただ、天国への道、いのちに至る門は、狭く、見出す者も稀です(14節)。妨げる者があるからです。貪欲な偽預言者たちです(15節)。主イエスは、妨げる者を実によって見分ける方法を教えてくださいました。良い実と悪い実。御霊の実(ガラテヤ5章22〜23節)と、肉の実(同19〜21節)を思い出します(信仰と行ないの不可分一体性は先述のとおり)。
ところで、「さばいてはならない」(1〜5節)と語られた主イエスは、もしかすると、悪い兄弟を見分ける以前に、まず自分自身、実を結んでいるかどうか吟味するように、という意味で見分け方を教えてくださったのかもしれません。「神の義」に生きることを妨げる最たる者は、実は己自身(の罪)とも言えるからです。
人生の一瞬一瞬の選択のときに、「実を結ぶ『神の義』に生きる道はどちらか?」と、絶えず祈りつつ、聖霊に導かれて、いのちに至る狭き道を選び取りたいものです。そして、確かな土台である「岩」(24節)の上に人生を築いていき、洪水のときに(25節)ノアが神を信じて救われたように、私たちも最後の審判のときに「神の義」によって救われたいと願います。
※ 「岩」とは「キリスト」(第一コリント10章4節)であり、キリストの上に建てるとは、主イエスを「生ける神の御子キリスト」(マタイ16章16節)と信じ告白して生きることです。主イエスも、信じる者たちの群れである教会を、この「岩」(信仰告白)の上に建てます(同18節)。
主イエスが語り終えたとき、群集が権威を覚えたのは(29節)、正直なところだと思います。モーセなどのことばを引用してその権威にあやかる律法学者たちとは違い、「天の父のみこころを行う」(21節)=「わたしのことばを行う」(24節)というように、天の父なる神とご自身とを重ね合わせて語る主イエスに、確かな神の子の権威を感じとったからでしょう。