「天の御国はその人のもの」(5章3節)と始められた山上の説教(5章1節〜7章29節)のメインテーマは、「義」です。天国に入れるか否かが、この「義」という基準にかかっているのです(5章20節)。この「義」について、主イエスはまず、再定義をされました。ユダヤ教の伝承における「義」について(5章17〜48節)、宗教的善行における「義」について(6章1〜18節)、いろいろな角度から述べてこられたのが、先週までのところでした。
今日の箇所では、その再定義された「義」が「神の義」(6章33節)であり、それを「まず第一に求めなさい」と語られます。そして、7章1〜6節をひとまずカッコに入れておいて、7節以降でも「求めなさい」と続きます。最後に12節で、これが「律法であり預言者」(7章12節)、つまり「聖書全体」であると宣言され、求めるべき「神の義」を一言でまとめます。
「何事でも、自分にしてもらいたいことは、他の人にもそのようにしなさい」(7章12節)
黄金律(Golden rule)としてよく知られていますが、では、「自分にしてもらいたいこと」とは何でしょう?
いろいろ思い浮かぶかもしれませんが、新改訳聖書で12節の「律法であり預言者」に付されている注2)を見ると、参照箇所として、マタイ22章40節、ローマ13章8〜10節、ガラテヤ5章14節が挙がっています。3つとも、「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい」(レビ19章18節)という旧約聖書を引用した箇所であり、それが「律法であり預言者」、つまり「聖書全体」であると述べられています。たしかに、「自分にしてもらいたいこと」=「愛されること」、「愛する」=「自分にもしてほしいことをする」と理解すると合点がいきます。
そして、黄金律を「人を愛する」と理解したとき、黄金律を守ることが「神を愛する」ことにつながります。主イエスは、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと」(ヨハネ15章12節)という主の戒めを守ることが、主を愛することである(同10節)とおっしゃいましたから。また、ヨハネの手紙でも、「目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません」(第一ヨハネ4章20節)と言われています。人を愛することが神を愛することであり、神を愛するあらわれとして人を愛するのです。両方が「律法であり預言者」なのです(マタイ22章37〜40節)。
しかし・・・と、ここまできて、ためらいを抱かれたかもしれません。「私には愛がないんです」「愛のない罪人です」と。もし「愛すること」が黄金律、つまり「神の義」であり、天国に入れるか否かの基準(5章20節)だとしたら、「天国には行けない、滅びるしかない」と。そうなんです、天国には行けないんです・・・、自分の力では、行ないでは。
ここに、主イエスの「義」の再定義の究極があります。山上の説教の箇所では直接には語られていませんが、後に使徒パウロの書簡によって、その真理は明らかになります。すなわち、行ないにはよらず信仰によって、滅びるしかない私たちの代わりに十字架の上で滅びの代価を担って(贖って)くださった主イエスを信じる信仰によって「義」と認められ(ローマ3章20〜22節)、天国の国籍要件(ピリピ3章20節)を満たしていただけるのです!
しかも、信じた者に与えられる聖霊に導かれて歩むとき(ガラテヤ5章25節)、その結ぶ実(同22節)によって、愛の人に変えられていくのです。信仰のあらわれ(信仰告白)として、愛の行ないが伴っていくようになるのです(行ないは信仰告白であり、信仰と行ないは不可分一体です。ヤコブ2章22〜26節)。
このように聖書全体から見ると、「神の義」とは、神を愛し、人を愛するよう命ずる「行為規範」であるとともに、愛せない罪人をも主イエスの十字架の贖いを信じるゆえに義と認めてくださる(信仰義認)という、最後の審判における「裁判規範」でもあると言えます。そして、神の義を求めることは、信仰告白としての愛に生きることができるよう、聖霊を求めることであると言えます(ルカ11章13節)。
私たちは、神の国と神の義とを第一に求めて生き、「幸いなるかな!」(5章3〜12節)と言われて天国に凱旋したいものです。
ゆめゆめ、神の国(神の主権的なご支配)を求めると言いながら、罪のない神のみが着座するさばき主の座を占めたり(7章1〜5節)、世の富(6章24節)に心奪われ、富(マモンという貨幣の偶像)を第一にし、貧しい兄弟姉妹を捨て置くことなど(第一ヨハネ3章17節)ないように。むしろ、富を賢く用いることができますように。
あなたの宝(6章21節)が地ではなく天にあり、あなたの光(6章23節)が金貨の光ではなくいのちの光でありますように。
地上にある間は、パレスチナ平原の野生のアネモネのように(6章28〜30節)、神がキリストによって装ってくださいますように(ガラテヤ3章27節)。