「もしあなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさるものでなければ、あなたがたは天の御国に、入れません」とイエスは言う。この「義」が旧約聖書律法、ユダヤ教のトーラーとの関連で説き明かされている。律法の要求している義よりも厳しい義が語られている。「殺すなかれ」と十戒で命じられているが、人殺しだけではなく、人を憎んだり、悪口を言ったりすることは、殺人の動機となり、人殺しの始まりだ、と断罪されている。「姦淫するなかれ」と同じく戒められているが、情欲を心に抱くならば、姦淫という行為を犯すことと同罪だ。旧約聖書で規定されているように、離婚状を渡したとしても、妻を離別することは妻が再婚して別の男性と関係を持ち、「姦淫を犯す」ことを強いる行為である。偽りの誓いをしない、誓ったことは実行するだけではなくて、誓うことが不要となる程に常に誠実に真実、正直に言葉を用いて、語ることが命じられている。自らの正当な権利であっても主張するのではなく、悪に手向かうことを止めて、他者のために自らの権利を放棄するように奨められている。隣人を愛するだけではなく、敵や迫害する人をも愛するように求められている。神が完全であるように、完全となることが神から神の子に求められていることが確認されている。
「律法学者やパリサイ人の義にまさる」義をイエスは教えているが、旧約聖書律法が神の絶対的義の表現としては不十分であることが示唆されている。『はい』は『はい』、『いいえ』は『いいえ』と言うこと「以上のことは悪い」(37節後半)とイエスは指摘する。マタイ福音書19章の離婚問答で明らかになるが、離婚状を渡して妻を離別せよ、とは「あなたがたの心がかたくななので」(19章8節)モーセが許した、とイエスは言う。換言すると、律法は神のみことばではあるが、神の完璧なみこころが、純粋な絶対的な形で提示されているとは限らないことになる。