旧約 第52週 ゼパニヤ書~マラキ書
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東京基督教大学大学院 神学研究科 委員長
日本同盟基督教団
市川福音キリスト教会 牧師
山口 陽一
2009年10月31日 初版
【日曜】 ゼパニヤ書
ゼパニヤ書は、その内容から3つの部分に分けられます。
1. エルサレムへの預言(1章2節~2章3節)
2. 諸国への預言(2章4~15節)
3. 回復の預言(3章1~20節)
冒頭、「ユダの王ヨシヤの時代」とあることで、私たちの期待は高まります。列王記第二22~23章に記された、あの宗教改革を成し遂げたヨシヤの時代なのですから!
しかし、「主の大いなる日は近い。それは近く、非常に早く来る」(1章14節)と、迫り来るさばきの日の近いことが語られるのみです。
そうでした。ヨシヤは8歳で王位についたのでしたから、彼による改革の前夜の暗闇のなかで、ゼパニヤの預言は始まったのでしょう。
しかし、やがて回復の兆しです。「シオンの娘よ。喜び歌え」(3章14節)、「あなたの神、主は、あなたのただ中におられる。救いの勇士だ。主は喜びをもってあなたのことを楽しみ、その愛によって安らぎを与える。主は高らかに歌ってあなたのことを喜ばれる」(3章17節)。
ここには異なる3つのことばで「喜び」が語られています。あふれる愛と喜びは、どこから始まったのか、そして始まるのか。私は、大祭司ヒルキヤが「私は主の宮で律法の書を見つけました」と言って、王の書記シャファンにこれを手渡した日のこと(第二列王22章8節)を想うのです。みことばの再発見こそ回復の始まりなのです。
【月曜】 ハガイ書
ハガイ書には細かな日付が出てきます。ペルシャの王ダリヨスの第2年の6月1日(1章1節)、6月24日(1章15節)、7月21日(2章1節)、9月24日(2章10・18・20節)です。この背景となる歴史がエズラ記にあります。ペルシャの王クロスの勅令によりエルサレム帰還を許された人々は、早速、神殿の再建に取り掛かったのですが、彼らは貧しく、妨害は激しく、工事は十数年後に中止されました。それがダリヨス王の第2年でした(エズラ4章24節)。
そこで立てられた預言者がハガイでした。彼は言います。「この宮が廃墟となっているのに、あなたがただけが板張りの家に住むべき時であろうか。今、万軍の主はこう仰せられる。あなたがたの現状をよく考えよ」(1章4~5節)。
オレたちは食うのにやっとなのだ。身を粉にして働いてもわずかな収穫があるばかりだ・・・。そんな訴えをしたであろう民に向かって、ハガイは説きます。「あなたがたは、多くの種を蒔いたが少ししか取り入れず、食べたが飽き足らず、飲んだが酔えず、着物を着たが暖まらない。かせぐ者がかせいでも、穴のあいた袋に入れるだけだ」(1章6節)。
そうなのです。順番が間違っていました。彼らの帰還は神殿再建のためだったはずなのに、いつしかそれは生活再建に置き換わってしまっていたのです。ハガイは主のことばを取り次ぎます。「山に登り、木を運んで来て、宮を建てよ。そうすれば、わたしはそれを喜び、わたしの栄光を現そう」(1章8節)。
民は、このことばに聞き従い、主を恐れたのです(1章12節)。そして、民の信仰の応答に対する神の約束はこうでした。「わたしは、あなたがたとともにいる」(1章13節)。
主イエスのことばが、ローマ帝国の支配にあえぐ民に語られたのは550年ほど後のことです。「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます」(マタイ6章33節)。
私たちも「あなたがたの現状をよく考えよ」(1章5・7節)との問いに照らされて、第一にすべきことを第一としようではありませんか。
【火曜】 ゼカリヤ書1章~4章
ゼカリヤとハガイは、ペルシャの王ダリヨスの第2年(紀元前520年)に神殿工事が中断されたとき、共に活動した預言者です。6月1日にハガイが預言を始めると、6月24日には工事が再開されました。預言者ゼカリヤが悔い改めを告げたのは同年の8月です。神殿工事の中止を記したエズラは、直後にこの2人の登場を書き記します。「さて、預言者ハガイとイドの子ゼカリヤの、ふたりの預言者は、ユダとエルサレムにいるユダヤ人に、彼らとともにおられるイスラエルの神の名によって預言した」(エズラ5章1節)。
神殿工事再開に集中したハガイの預言は9月24日までですが、ゼカリヤの預言はさらに続きます。
11月24日、夜、赤い馬に乗りミルトスの木の間に立つ巡察使は、行き巡った全地は安らかだったと報告します(1章8~11節)。主の使いは、「わたしは、エルサレムとシオンを、ねたむほど激しく愛した」(1章14節)との主のことばを伝えます。そして、エルサレムの人々を散らした4つの角(王)は、4人の職人(鍛冶)によって打ち滅ぼされるのです。
2章は、エルサレムを測量する人の幻です。「シオンの娘よ。喜び歌え。楽しめ。見よ。わたしは来て、あなたのただ中に住む」(10節)とは、エルサレム回復の預言です。
3章には、御使いの前で訴えられている「よごれた服を着た大祭司ヨシュア」が現れます。訴えているのはサタンです。大祭司ヨシュアはよごれた服を脱がされ、礼服を着せられて復職します。
4章は、7つのともしび皿をもつ金の燭台の幻です。そばには2本のオリーブの木があり、金の管によって金(油)を注いでいます。そしてこう語られました。「これはゼルバベルへの主のことばだ。『権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって』と万軍の主は仰せられる」(6節)。
2本のオリーブの木は、大祭司ヨシュアと総督ゼルバベルです。エルサレムをねたむほど愛される主は、全地を巡察し、回復を約束し、大祭司を復職させ、ご自身の霊によって回復を進められるのです。
主は、生きておられます。「わたしに帰れ」(1章3節)との呼びかけに応えて、キリストに立ち返ったあなたが、主の神殿として建てられ、礼拝者として整えられますように。
【水曜】 ゼカリヤ書5章~8章
次々に現れる夜の幻の6番目は、空飛ぶのろいの巻物。7番目は罪の象徴である女を閉じ込めたエパ枡です。この2つの幻は、罪が除かれることを示しています。エパ枡は、翼に風をはらませた2人の女によって、シヌアル(バビロン)の地へ運び去られます。
6章は一連の幻の最後です。赤、黒、白、まだらの馬が引く戦車が四方を駆け巡り、主の怒りを静めます。そして大祭司ヨシュアは戴冠され、言われます。「見よ。ひとりの人がいる。その名は若枝。彼のいる所から芽を出し、主の神殿を建て直す」(12節)。
7章は、およそ2年後、ダリヨスの4年の9月4日の預言です。神殿の完成はダリヨスの6年ですから、進捗する工事を背景に語られたものです。70年の捕囚は、かたくなな民に対する神のさばきであり、慕わしい地は荒れすたれていました。しかし、主は仰せられるのです。
「わたしは、シオンをねたむほど激しく愛し、ひどい憤りでこれをねたむ」(8章2節)。
「わたしはシオンに帰り、エルサレムのただ中に住もう。エルサレムは真実の町と呼ばれ、万軍の主の山は聖なる山と呼ばれよう」(同3節)。
ハガイの預言により神殿工事を再開した民に、ゼカリヤ励ましを与えます。8章の9節から13節は声を出して読んでみましょう。クリスチャンとなって以来のあなたの生活とも重ね合わせて味わってください。
【木曜】 ゼカリヤ書9章~11章
ゼカリヤ書は9章から、かなり様相を変えます。神殿再建とは直接関係のない後期のものでしょうか。11章には、マタイがエレミヤのものとして引用するところもあります。
9章9節は、マタイ21章5節において、主イエスのエルサレム入城のところで引用されます。
「シオンの娘よ。大いに喜べ。エルサレムの娘よ。喜び叫べ。見よ。あなたの王があなたのところに来られる。この方は正しい方で、救いを賜り、柔和で、ろばに乗られる。それも、雌ろばの子の子ろばに」(9節)。
そして11章13節は、ユダの裏切り指し示すものとしてマタイ26章15節、27章9~10節に引用されています。
「主は私に仰せられた。『彼らによってわたしが値積もりされた尊い価を、陶器師に投げ与えよ。』そこで、私は銀30を取り、それを主の宮の陶器師に投げ与えた」
今日の箇所(ゼカリヤ9~11章)は、王なるキリストを思いつつ読みましょう。
【金曜】 ゼカリヤ書12章~14章
ゼカリヤ書は12章から黙示的な内容になります。終末を示す「主の日」を表す「その日」ということばが、12章に7回、13章に3回、14章に8回も使われていますから、印をしてみてください。
「その日、ダビデの家とエルサレムの住民のために、罪と汚れをきよめる一つの泉が開かれる」(13章1節)。「その日には、エルサレムから湧き水が流れ出て、その半分は東の海に、他の半分は西の海に流れ、夏にも冬にも、それは流れる」(14章8節)。これらは黙示録の新天新地の光景、「御使いはまた、私に水晶のように光るいのちの水の川を見せた。それは神と小羊との御座から出て、都の大通りの中央を流れていた」(黙示録22章1~2節)を思わせます。
あるいは「その日には、光も、寒さも、霜もなくなる。これはただ一つの日であって、これは主に知られている。昼も夜もない。夕暮れ時に、光がある」(14章6~7節)は、「都には、これを照らす太陽も月もいらない。というのは、神の栄光が都を照らし、小羊が都のあかりだからである」(黙示録21章23節)を連想させます。
「主の日」。それは黙示録同様、ゼカリヤ書においても、「主は地のすべての王となられる」(14章9節)日です。私たちは、毎週、主の召集による「主の日」に、その日を待ち望みつつ礼拝をささげます。あなたの「主の日」は、主を王とする日でしょうか。
【土曜】 マラキ書
ハガイやゼカリヤの預言により神殿が再建された後、エズラやネヘミヤの改革と重なるような時期にマラキは活動しました。
この預言書の特徴は、神と民との対話形式で記されていることです。しかも、それはかなり不穏なやり取りで、民の不平はとどまるところを知りません。
主 「わたしはあなたがたを愛している」
民 「どのように、あなたが私たちを愛されたのですか」(1章2節)
主 「あなたがたは、あなたがたのことばで主を煩わした」
民 「どのようにして、私たちは煩わしたのか」
「悪を行う者もみな主の心にかなっている。主は彼らを喜ばれる。
さばきの神はどこにいるのか」(2章17節)
主 「あなたがたはわたしに、かたくななことを言う」
民 「私たちはあなたに対して、何を言いましたか」
「神に仕えるのはむなしいことだ。神の戒めを守っても、
万軍の主の前で悲しんで歩いても、何の益になろう」(3章13~14節)
このようなかたくなな民に対して、最後の4章では、厳しい警告がなされます。
「見よ。その日が来る。かまどのように燃えながら。その日、すべて高ぶる者、すべて悪を行う者は、わらとなる」(4章1節)。
そして、最後は約束です。
「見よ。わたしは、主の大いなる恐ろしい日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす。彼は、父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせる。それは、わたしが来て、のろいでこの地を打ち滅ぼさないためだ」(4章5~6節)。
注) 新改訳の4章の内容は、新共同訳の3章19~24節に該当します。
このようにして旧約聖書は閉じられ、時は流れ、バプテスマのヨハネが現れて「預言者エリヤ」の役を果たすことになります。
民の「どのように、あなたが私たちを愛されたのですか」(1章2節)という不平に対して、主は応えられます。「わたしのひとり子を与えるほどに」(ヨハネ3章16節)。
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