旧約 第50週
ホセア書1章~アモス書5章

日本バプテスト同盟 茨木恵キリスト教会 伝道師
岡口 学

2009年10月31日 初版

【日曜】 ホセア書1章~4章

【1章】

 聖書において、神がその民を見捨てられるということは、ご自分が必ず祝福すると契約してくださった民としてではなく、主を知らない異邦人と同じと見なされるということである。
 神から見捨てられる! しかしその理由は、決して無分別な嫉妬ではない。契約の民イスラエルが、まるで契約者たる神などいないかのように振る舞う姿を、主は、自分を愛する夫を捨てて姦淫に走るホセアの妻と淫行によって生まれた子どもたちになぞらえて語られている。
 新約聖書でもエペソ書5章21節以下において、主イエスと教会との関係が、愛によって結ばれた夫婦になぞらえて語られている。そして、その愛は常に神の側からの限りないものとして注がれる。神の愛が、血筋によるイスラエルではなく、神を知らなかった異邦人すべてと異邦人同様になったイスラエルのなかから、キリストを信じる民を興し、新たなイスラエルとする。神の民の回復の預言(10~11節)は、そうして実現したのである。

【2章】

 ホセアが預言した時代は北イスラエル王国末期であったが、一方、当時のヤロブアム2世統治下は非常に繁栄した時代でもある。しかし、北イスラエルの多くの人々は繁栄を、かつてエジプトの奴隷の縄目から解放してくださり、荒野で契約を結び、カナンの土地をお与えくださった主の恵みとは考えず、カナン土着の豊穣神バアルの恵みであると考えたのだった。主への感謝を忘れ、このバアル信仰へ神の民が走ったことこそが、浮気である、と語られるのである。
 しかし、神はそれでもなお、妻であるイスラエルと離縁を望んではおられない。神はイスラエルに苦しみを与えるが、それは単なる裏切りに対する罰などではなく、むしろ苦難のなかで真に頼る方を再び見出させようとされるからである。
 そしてその立ち戻る場所として、神の愛と憐れみがあらわされている場所こそが十字架である。「あなたがたは、以前は神の民ではなかったのに、今は神の民であり、以前はあわれみを受けない者であったのに、今はあわれみを受けた者です」(第一ペテロ2章10節)

【3章】

 このような神の限りない「赦す」愛は、再びホセアとその妻との関係になぞらえて語られる。妻は、おそらく奴隷を贖う金額で買い取られた。これは、ヨハネの手紙第一4章11節と響き合っている。「愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです」。十字架の贖いという神の愛を受けた者もまた、人を赦し愛していくよう押し出されるのである。

【4章】

 しかし、そもそも神に背いてバアル信仰など異教の信仰に走ったのは、真の主がどのような方であるかという「知識がなかった」からだと言う。つまり信仰教育が十分になされていなかったので、このような事態になってしまったのだと言う。それゆえ、民に神の教えを伝え、導くべき預言者と祭司は、その職務を果たさなかったことを厳しく咎められている。「私たち教師は、格別きびしいさばきを受けるのです」(ヤコブ3章1節)。御言葉の教師たる者の責任は重大である。

【月曜】 ホセア書5章~8章

【5章】

 「羊の群れ、牛の群れを連れて行き、主を尋ね求めるが、見つけることはない。主は彼らを離れ去ったのだ」(6節)。羊や牛はなだめの供え物の犠牲であった。しかし、御言葉は、民の背信の罪が、単に多くの犠牲を儀式的に献げることによっては贖われないことを示している。
 「彼らが自分の罪を認め、わたしの顔を慕い求めるまで、わたしはわたしの所に戻っていよう。彼らは苦しみながら、わたしを捜し求めよう」(15節)。上っ面の謝罪ではなく、心からの悔い改め、主を求める切なる思いが起こされるようになるまで、主は応えてくださらない。「神のみこころに添った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします」(第二コリント7章10節)。

【6章】

 「わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない」(マタイ9章13節、12章7節)と主イエスがおっしゃるのはこのホセア6章6節である。「あわれみ」はヘブル語では「ヘセド」と言い、特に、神の限りない慈しみ、愛を示すときに用いられる重要な言葉である。
 しかし、神からの限りない慈しみ・誠実に対して、イスラエルの民は、悔い改めてはまた背きの罪を犯し続けるという歴史を繰り返し続けた。「あなたがたの誠実〔ヘセド〕は朝もやのようだ。朝早く消え去る露のようだ」(4節)。1~3節の悔い改めの美しい祈りは、それが実を結ばずに再び同じ背きの罪を繰り返すとき、外見上のみの空しいものとなる。
 「全焼のいけにえより、むしろ神を知ることを喜ぶ」(6節)。外見上だけのキリスト教的な生活に陥ることなく、神を愛し人を愛し(マルコ12章33節)、神様が望んでおられる最も根本的なものを逃さないようにしたい。

【7章】

 「彼らのうちだれひとり、わたしを呼び求める者はいない」(7節)。神がその民をご自分に立ち返らせ、救おうとされている一方、民のほうでは相変わらず地上の権力を頼みとし、あるいは宴会など快楽によって現実逃避をする。「わたしは彼らを贖おうとするが彼らはわたしにまやかしを言う。彼らはわたしに向かって心から叫ばず、ただ、床の上で泣きわめく」(13~14節)。
 人は自分の罪に対して、外見上の涙や悲しみをあらわすことができる。あるいはその悲しみは本人にとっては真実の嘆きなのかもしれないが、単に涙を流し悲しむだけでは、心から神に立ち返り悔い改めることにはならないのである。
 神はすべての罪をご存じであり、人はそれを隠すことができないのであるから(2節)、罪を隠そうとしないで、率直に主に告白し、赦しを祈り願う姿勢こそ重要である。しかし同時に、口先だけの改心ではなく、実際に罪から手を洗うことが必要である。

【8章】

 「『私の神よ。私たちイスラエルは、あなたを知っている』と叫ぶが、イスラエルは善を拒んだ」(2節)。単に知識としてキリスト教の神を知っているだけでは、救いにとっては何の意味もない。また単に信じるということを心のなかで思っているだけでも十分でない(ヤコブ2章26節など)。キリスト者は、生活のなかで、具体的に主イエスに従いつつ歩む者である。

【火曜】 ホセア書9章~11章

【9章】

 7節の「預言者は愚か者、霊の人は狂った者だ」は、偽預言者がはびこった、ということではない。続く7節後半の「~~のため」、民が神の言葉を伝える者たちを愚か者、正気を失った者として扱ったということである。主を信じない人々の間では、神の正義を宣言し、不道徳ゆえの破滅を預言する者は、語る内容の正しさにもかかわらず、きちんと評価されず喜ばれなかった。
 しかし預言者であるホセアは自らを、朝の光を待ち望み、敵の接近を知らせる見張り人であると語る(8節)。たとえ、人々が聞きたくないことであっても、破滅をもたらすものが近づくとき、御言葉の働き人は公に警告しなければならない。同時に神の人は、それがどれだけ人々に評価されなくても、神は必ず報いてくださることを信じ、待ち望む。「その日には喜びなさい。おどり上がって喜びなさい。天ではあなたがたの報いは大きいから。彼らの父祖たちも、預言者たちに同じことをしたのです」(ルカ6章23節)。

【10章】

 1節では、かつてのイスラエルの姿は美しい表現で語られている。祭壇を増やしたということは、それだけ礼拝場所を増やしたということである。彼らの初めの動機を想像するに、おそらくはそれぞれの場所で、神を礼拝したいという情熱があり、その結果多くの場所で礼拝所が建設されることになったのではないだろうか。しかし、そのような行為には二心があることを主は見抜いておられた。心から主お一人を礼拝するのではなく、その方の語る正義を実行するのでもなく、外面的に神殿を奉ることで十分に信仰をあらわしていると自己満足していたのではないか。
 教会はどうだろうか? もしキリスト者が日曜日の礼拝を守ることや、様々な地域に礼拝堂を建てることによって満足し、日頃の生活のなかでは正義を求めて苦しむ人に対して無関心になってはいないか? あるいは自分が苦難に陥ったとき、結局のところ自分の努力によって築いた能力や財産が自らを助けると思って安心してはいないだろうか? 「自分の肉のために蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊のために蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです」(ガラテヤ6章8節)。

【11章】

 この章では、神とイスラエルとが親子の関係で描かれている。ある注解書によれば、この預言がなされたとき、ホセア自身は10代の子どもたちの親としての体験をしていただろうと言う。しかも彼の妻は不倫のため、おそらく長い間家から離れていたので、シングルファザーとして3人の子どもたちを苦労して育ててきたのだろうと言う。そのような経験を通して表現されているのは、親が悩み苦しみを覚えながらも、子を慈しんで見守り育てるように(3節)、神もまたイスラエルの親として民を愛されたということである。4節の「優しく」(新改訳)は意訳で、「身をかがめて」(新共同訳)のほうが原意に近い。神は自ら、かがみ込まれ、身を低くして、イスラエルのお世話をしてくださった。
 しかし、それにもかかわらず、彼らは恩知らずにも反逆したのであった。それに対して神は、どれだけ反逆しようとその愛ゆえに見捨てることができないと言われる(8節)。放蕩息子を変わらず愛し、家に帰ってきたとき喜び迎え入れてくださる父なる神の姿がある(ルカ15章20節)。

【水曜】 ホセア書12章~14章

【12章】

 ここで語られる創世記のヤコブ物語は、彼が自分の欲望を満足させるために兄弟を陥れたこと、その自己中心的な姿勢こそが現在のイスラエルの姿に他ならないということを告げている。4節ではヤコブの格闘した相手が「御使い」であったことが明らかにされている。また、彼が「泣いた」というのは創世記の記事にはないが、これはホセアの説教的解釈である。ヤコブはさんざん自分のために働いて、自分の欲望を満足させる人生を送ってきたが、主ご自身と出会い、この方がともにいてくださったことを知ったときに始めて涙することができ、悔い改めが起こったのであった。
 主はご自分の民に、自己中心的な労働ではなく、誠実と公義のある労働を守られるように求めておられる。働きを与え、1日をともにいてくださり、守ってくださるのは、主である。「働きにはいろいろの種類がありますが、神はすべての人の中ですべての働きをなさる同じ神です」(第一コリント12章6節)。

【13~14章】

 13章は、神の怒りのすさまじさが語られている。7~8節では、主の怒りが、子を奪われた野の獣のように情け容赦ないことを語る。14節の前半は救いが語られているが、その前に、民は死のとげ、よみの針をもって懲らしめを受け、完膚なきまでに滅びを体験することになると宣言される。
 しかし、そのようにして一度完全に罪における死を体験したからこそ、死から救い出され、新しい命に生きる者とされるのである。コリント書第一15章55節で、パウロはもはや、この死の力がキリストの十字架による救いの前に無力とされ敗北したことを宣言する。「死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか」
 14章では、そのようにして主に赦され贖われた民が、そのときにはもはや、カナン宗教と入り交じった信仰ではなく(8節)、ただ主のみを礼拝し、再び祝福のなかに生かされるようになると預言され、終えられている。ホセア書は、このような自分自身の体験した妻の不倫の悩み、育児の苦労に、父なる神の心中を重ね合わせ、それでも親として彼らを見捨てず、子であるイスラエルを愛し続けてくださる、父なる神へ立ち返ることを語り続ける書である。

【木曜】 ヨエル書

【1章】

 虫が嫌いな読者にとっては、想像するのもおそろしい。いなごとばったの大襲来である。イスラエルをおそった害虫の大群は一匹一匹が巨大で堅く、日本のものとは違って佃煮にして食べることもできない。彼らがむさぼり土地を荒らす有様は、軍隊の襲撃にたとえられている(6節)。また、大火が焼き尽くしたように根こそぎにしたとも語られる(19節)。
 このような大災害の起こった時期について、他の書と異なり王の治世について記されてはいないが、おそらくは紀元前5~4世紀ごろと推測されている。
 預言者はこれを単なる自然現象として片づけずに、神の御手が働かれており、何かこれから起こる恐ろしいことの前触れとして見ている(15節)。この「主の日」が救いなのか破滅なのかは語られていない。しかし、預言者は将来がわからないこのときにこそ、主によりたのみ祈りを献げるべきであると語る(14節)。同時に、この未曾有の危機に対して主がどのように神の民に働いてくださるのかを後の時代にまで伝え続けよ、と希望の命令もなされている(3節)。「希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい」(ローマ12章12節〔新共同訳〕)。主に期待し祈ろう。

注) 厳密には、4つのイナゴとバッタ類は、律法の規定上食べてもよい生き物(カシュルート)である(レビ11章20~23節)。レビ記の規定があることからも、イナゴ類を食す習慣自体は存在したと考えられる。実際、バプテスマのヨハネは、イナゴと野蜜を常食としていた。ただ、乳と蜜の流れる祝福の地に入植したイスラエルの民が、他にも豊富な食材のなかで、なおもイナゴを食していたかどうかは不明である。なお、災害を引き起こすのは、実はイナゴではなくて、イナゴと区別するのが難しいバッタの変異種である。食べることができるのは群れない昆虫であるから、どちらにせよ、ヨエルの時代に襲撃してきた害虫は食べることができなかった。

【2章】

 ヨエルは、イスラエルの不正を告発してはいない。何か具体的な大きな罪のために、この災害が起こったとは記されていない。むしろ、切なる祈りをもって神に助けを求めるよう訴える。ここで求められているのは、より一層本質的な事柄への注目であろう。神の前にただ無力な者としてへりくだり、「着物ではなく、あなたがたの心を引き裂け」(13節)と言われる。他方、神が恵みと祝福をお与えになるのは、民の断食祈祷のゆえというよりは、神の自由なお働きであるとも語られる(13~14節)。
 そしてついに、主が憐れんでくださり、いなごの災いを去らせてくださったこと、また復興の約束をしてくださったことが告げられる(19~27節)。
 28節以下は、使徒2章16節以下によればペンテコステの日に成就したと語られている。すべて主に信頼し救いを叫び求める者に対しては、一切の差別なく(異邦人すらも!)、神の力が聖霊を通して与えられたのである。これもまた、「災害からの救い」から、より本質的な「罪からの救い」という問題への深化が語られているように思う。

【3章】

 この章では、諸国民の罪についての裁きが語られる。特に注目されているのは、子どもたちを奴隷として売買した罪である。もはや主の裁きはイスラエルにとどまるのではなく、全世界に対して語られる。農地の回復は同時に裁きの日が近づいていることを語る(13節)。いなごの災害と併せて、黙示録9章の終末の世界を思わせる。しかし、主はそのときも変わらず神の民にとって「避け所」「とりで」(16節)となる。特に重要なのは「主はシオンに住む」(21節)である。主は逃れ場として離れたところにおられるのではなく、すぐ近くに、その民のただなかにともにおられ、彼らを守り導いて下さる。この約束は主イエスによって実現した。「わたしは、世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます」(マタイ28章20節)。

【金曜】 アモス書1章~3章

【1章】

 アモスは預言者ではなく、「牧者」(1節)として紹介されている。テコアという田舎町出身ということも含め、彼は職業祭司や宮廷・在野の預言者などとは違い、普段は信徒として働きをしていたと思われる。ホセアと同じく、北イスラエル王国末期の繁栄したヤロブアム2世の統治時代に活動した人物である。
 「叫び」(2節)は、アモスが頻繁に用いる獅子の吠える声である。彼が聞いた神の声は、悪に怒り吠えたける獅子のごとき叫びであった。「主はこう仰せられる」という言葉が繰り返されるが、これはアモスが自分の憤りを語っているというだけではなくて、神ご自身が激しく語っておられることを強調しているのである。
 1章ではまず近隣諸国の戦争犯罪について罪状が述べられる。共通するのは、各国が以前はイスラエルと何らかの協定関係にあったにもかかわらず、それを尊重しなかったということである。語り手アモスは戦場の風景を見ており、イスラエルの民が苦しめられている様を間近に見ていることをうかがわせる(13節)。神は悪に対しては柔和な声で語りはしない。

【2章】

 主の叫び、悪の告発はイスラエルに対してもなされる。特に、背きの罪とともに、弱者を虐げて、彼らをくいものにしていることについて厳しく指摘されている(6~8節)。
 9節以下で語られているのは、そもそもイスラエル自身もかつては弱い者であり、それを助けてくださったのは神ご自身であったことが確認される。それなのに、今やその恵みを忘れて、神の御言葉を聞こうとせず(12節)、人々を虐げる諸国と同じ振る舞いをするイスラエルに対して、神は決してお見逃しにはならないのである。
 マタイ25章41~45節は、神を信じると言った者たちが、神の民として行うべき隣人愛を実践しなかったとき、神ご自身から厳しく罰せられることが語られている。キリスト者もまた、社会正義に対して無関心であることはありえない。

【3章】

 このように主がイスラエルに対して特別な厳しさで罰を与えようとされるのは、彼らが神に選ばれた民であるからだと言う(2節)。選びの民に与えられたのは繁栄の特権だけではない。むしろ、神がともにいてくださり、導いてくださるというなかに、約束の結果として繁栄が与えられたのであった。それゆえに、罪に対しても約束どおりに、厳しく罰せられるのである。
 預言者がそのような神の御言葉を語ることは、選択の余地がないほどに当然であることを、アモスは語る。3~8節で語られる様々な状況は、すべて選択の余地がなく、起こりうる結果である。
 もし、私たちが神の御言葉を本当に聞いたのであれば、それが悪を指摘するものであれば、それを沈黙し続けることはありえない。ことに、説教者はそれが本当に神の御言葉として語られたものであれば、獅子の吠える声を聞いて抗うすべもなく怯えるように、語らないではいられないはずである。

【土曜】 アモス書4章~5章

【4章】

 主は、貧者を虐げる者たちをご自身の正義に立ち返らせるために、あえて飢饉の苦しみをお与えになったが、それでも彼らは悔い改めなかったと言う。1節では「彼女ら」と女性たちもまた社会正義に対して責任があることを語られる。決して家長や夫ら男性のみが、社会を担っているわけではないからである。
 ベテルもギルガルも礼拝所があった場所である。つまりここでは礼拝をすることによって罪を犯せと言っているのである。それは5節にあるように、彼らは礼拝行為は守っているが、そこでなされているのは自分の献げ物を知らせるために触れ回ること、そのほうがおいしいからというので自分たちで勝手に判断して焼いた種入りのパンを献げることなど、神が望んでいない礼拝を自分たちで好き勝手に行っているという指摘である。しかし主が望んでおられるのは外面の礼拝行為ではなく、主に従いゆく姿勢をもって礼拝に参加することである。

【5章】

 5節で言われているのは、もはや礼拝する場所を求めるな、ということである。そして、これまで繰り返されてきた社会正義に対する注目は、「公義を水のように、正義をいつも水の流れる川のように、流れさせよ」(24節)という言葉によって最大限に強調される。つまり、生き方において、日々において絶え間なく神を礼拝し、正義を求める人生を送るようにと語られている。流れる川が激しく動き、洗い流し続けるように、神が求めておられる正義とは、定まった価値観や決められた法的義務というのではなく、常に新しく更新され続け中断することのない社会全体の働きである。あきらめたり目をそらすことなく活動し続ける、人々の群れである。
 「神の国はことばにはなく、力にあるのです」(第一コリント4章20節)。理念的な正義、口先だけの正義ではなく、実際に言葉によって押し出されて実践していくとき、神の国が実現するのである。

参考文献

  • リンバーグ/有沢僚悦:訳『ホセア書-ミカ書』(現代聖書注解)日本基督教団出版局、1992年
  • 安田吉三郎/三木冨美子『ホセア・ヨエル・アモス・オバデヤ・ヨナ・ミカ』(新聖書講解 旧約18)いのちのことば社、1987年
  • ハバード『ヨエル書、アモス書』(ティンデル聖書注解)いのちのことば社、2008年
  • 泉治典『アモス書・ホセア書を読む:王国の終焉』新教出版社、2001年