旧約 第48週
エゼキエル書31章~45章

日本長老教会 辰口キリスト教会 伝道師
加藤 真喜男

2009年10月31日 初版

【日曜】 エゼキエル書31章~32章

 わたしがエジプトの国を荒れ果てさせ、この国にある物がみなはぎ取られ、わたしがそこの住民をみな打ち破るとき、彼らは、わたしが主であることを知ろう。
 - エゼキエル書32章15節 -

 古代社会においてエジプトは大国であり、文化や軍事、その他多くの面で先進国でした。そのため、イスラエルもユダも、属国になることを覚悟で、あるときには助けを求めたことすらありました。
 そんな歴史的背景を考えつつ、現在の私たちにとって「エジプト」が何を意味するのかを考えることは、大きな益になります。
 「エジプトは自分とは関係ない」と、今日の箇所を軽く読み過ごすのは、重要なことに目を閉じてしまうことです。なぜなら、ここで言われているエジプト人とは、「誇りと高慢」の象徴ともとれるからです。主はそのような心を取り除かれます。それは多くの場合、簡単な処置ではなく、膿みを取り除く外科的摘出手術と言えます。それは痛く苦しい手術です。しかし、この手術はあくまで私たちを癒すためであることを、忘れないようにしましょう。

 まずは、エジプトの、栄えを誇った様を確認してみましょう。エジプトを木にたとえ、アッシリヤ帝国のレバノン杉(31章3節)と比べます。エデンの木々(31章9節)もこれを羨んだとあります。美しさ、丈の高さ、枝の生え方、安定感、すべてにおいて、木としての最高の栄誉を得ていました。
 これほどに栄えたエジプトが、主によってさばかれるのです。なぜでしょうか? それは「心がおごり高ぶったから」(31章10節)です。実際、人間は栄えれば栄えるほど、神を神とできなくなり、高ぶる傾向があるのです。エジプトのように栄えると、心が高ぶり、主を主と認めなくなりがちなのです。
 その高ぶりによって、エジプトはどうなったのでしょうか? 主によってバビロンの王の剣が下りました。エジプトの誇りは踏みにじられ、群集はみな滅ぼされる(32章12節)とあります。さらに主のことばはこう続きます。「わたしがエジプトの国を荒れ果てさせ、この国にある物がみなはぎ取られ、わたしがそこの住民をみな打ち破るとき、彼らは、わたしが主であることを知ろう」(32章15節)

 私たちは今、自分が心高ぶっていないかどうか探らなくてはいけません。主の前に高ぶっていないか? いや、主以上に大切にしているものはないか? 名声、金、異性などはどうだろうか。自分の心の王座に主が座しておられる人生を歩んでいるだろうか? 主がさばきをされる前に、私たちは自分の心を吟味することが求められているのです。私たちは、自ら主の前に進み出て、罪を悔い改めつつ、主を知り、主を喜ぶ人生を歩んで行きたいと思います。

【月曜】 エゼキエル書33章~34章

 聖書全体を見て、私たちは何を感じるでしょうか? そう質問すると、多くの答えが返ってくるでしょう。私は、最も重要なものの一つとして、人を救おうとする神の熱心があると思っています。

 本日の箇所を見ると、真実の預言者と偽預言者、本当の羊飼いと偽の羊飼い、神の羊と違う羊があることを、改めて感じます。私たちは、神の声に反応するものでありたいと思います。

 主は預言者に言われます。もし、悪者の咎に対して警告しないのなら、その悪者は自分の咎のゆえに死ぬ。さらに、主はその血の責任を預言者自身に問う、と言われるのです(33章2~9節)。
 預言者は、この神のことばのゆえに、悔い改めを説き、誠実に神のことばを語り続けるよう求められ、多くの王に遣わされました。そして、預言者は為政者を恐れずに大胆に語り続けました。罪を悔い改め、神に立ち返るようにです。しかし、預言者の声を聞かないのが人間でした。

 バビロンに滅ぼされた廃墟のなかで、「さあ、どんなことばが主から出るか聞きに行こう」(33章30節)と民は言います。しかし、彼らは、よく当たるお告げを聞きに来るだけ、自分の利益を考えるだけでした。この民にとって預言者の声は、聞き従うために聞くものではなく、自分の利益を求める一つの手段でしかありませんでした。それでも主の預言者は、民にさばきと回復を語るのです。
 「しかし、あのことは起こり、もう来ている。彼らは、自分たちの間にひとりの預言者がいたことを知ろう」(33章33節)

 次に悪い牧者のことが語られます。それはイスラエルの民を搾取し、自らを肥やした指導者たちの姿です。それに対し、主は、「わたしは自分でわたしの羊を捜し出し、これの世話をする」(34章11節)、「正しいさばきをもって彼らを養う」(34章16節)と言われるのです。
 主は、主の民と主の民以外との間(34章17節)をさばくとも語られています。そしてご自身の羊に、主はこう言われるのです。
 「あなたがたはわたしの羊、わたしの牧場の羊である。あなたがたは人で、わたしはあなたがたの神である。──神である主の御告げ──」(34章31節)

 旧約聖書を読むと、主はご自分の民を救うためにたくさんの預言者を送られました。そして、それでも主に聞き従わない民にはさばきを下され、その後、ご自身の御子であるイエス・キリストを良い羊飼いとしてこの地上に送られました。そして、ご自身の民を呼び出し、探し出してくださったのです。これは、ただただ主の熱心によることです。
 私たちは、偽預言者、偽の羊飼いではなく、このイエス・キリストという真の羊飼いの声に従ってゆく者でありたいと思います。今日も私たちは御霊によって、主のみことばに聞き従いつつ歩んで行きましょう。

【火曜】 エゼキエル書35章~36章

 あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を授ける。わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える。
 - エゼキエル書36章26節 -

 私たちの救いは「神の恵み」による、ということを改めて感じさせられるのが、今日の箇所です。

 イスラエルとユダは神の前に罪を犯し、その結果、捕囚の民となりました。しかし、神はその民に回復を語られるのです。ただ、その回復の際に問題がありました。今日の箇所に出てくるセイル、つまりエドム人のことです。エドムは、ユダに主のさばきが下されたとき、逃れた多くの人々を殺し、さらには弱っている神の民、「二つの民、二つの国」(ユダとイスラエル)を占領しようと虎視眈々と狙っていました(35章10節)。いや、それ以上に、彼らの敵意が問題でした。主はご自身の民の回復に際して、悪意を抱き、支障を来たすエドムに対し、さばきの預言をされたのです。

 ところで、捕囚の民イスラエルは、なぜ回復の預言が与えられたのでしょうか? 彼らが、捕囚の地で悔いたからでしょうか? 彼らが契約を思い出し、主に叫んだからでしょうか? いいえ。それどころか、36章22節には、彼らが諸国の間で主の御名を汚したと書いてあります。
 そんなどうしようもない神の民に、主は、大いなる愛を注がれるのです。つまり、どうしようもない民に、神ご自身が彼らを汚れからきよめ(36章25節)新しい心を与え、新しい霊を授ける(同26節)、というのです。そのうえで、すべての回復、いやすべての祝福が与えられる、というのです。

 私たちは、自分たちの救いがどこまでいっても「神の恵み」であることを覚えたいと思うのです。毎週礼拝を守ることができるのも、デボーションができるのも、いやイエス・キリストを自分の主と受け入れることができたのも、です。そして、「神の恵み」とともに、主によって、頑なな心を取り去っていただき、新しい霊を与えてくださるように祈りつつ、今日の一日を歩んでいきたいと思います。

【水曜】 エゼキエル書37章~38章

 主は私に仰せられた。「人の子よ。これらの骨は生き返ることができようか」
 私は答えた。「神、主よ。あなたがご存じです」
 - エゼキエル書37章3節 -

 私たちは、今日の箇所を読んでみて、何を思うでしょうか。この谷間に落ちている骨とは、何を意味するのでしょうか。
 それは、バビロンに連れて行かれ、試練のなかにある南ユダ王国のことです。アッシリヤ捕囚のときにイスラエルが帰還できなかったように、おそらく、南ユダの民も、「自分たちはもう祖国に帰還できない」と思い始めていたのではないでしょうか。捕囚に連れて来られて10年以上も異国に住み、だんだんとその生活が当たり前になっていくとき、かすかに抱いていた希望もなくなり、まさに、この骨のようにカラカラに乾いてしまっていたのでしょう。

 神は、「これらの骨は生き返ることができようか」と、エゼキエルに聞かれます。エゼキエルは、できるともできないとも言わずに、「あなたがご存じです」と答えました。本来なら答えは「否」でしょう。「多くの骨があり、ひどく干からびていた」(37章1節)とあるように、ぼろぼろになっているたくさんの骨は、干からびて、復活できるはずもないように見えました。しかし、エゼキエルは、「主にはできる」と信じていたのかもしれません。
 続けて神は、そのような骨に預言するように言われるのです。エゼキエルが預言していると、骨と骨がくっつき、筋がつき、肉が生じ、皮膚が覆うのです。そして主の息が入り、生き返るのです。

 これはイスラエルに対する復活の預言です。しかし、これは私たちにも当てはまることです。私たちが主の前にどのような状態であろうと、主の御霊が吹けば、リバイバルが起こるのです。
 今、もし私たちの心がカラカラだと気付いているなら、主に「満たしてください」と祈りましょう。南ユダの民が、まったく希望のないと思っていたときにも、主の預言どおりに帰還できたように、主には不可能はありません。どんな信仰の状態でも、どんな教会の状態でも、すべてを変えることのできる主を信じ、歩みたいと思います。

【木曜】 エゼキエル書39章~40章

 人の子よ。あなたの目で見、耳で聞き、わたしがあなたに見せるすべての事を心に留めよ。わたしがあなたを連れて来たのは、あなたにこれを見せるためだ。あなたが見ることをみな、イスラエルの家に告げよ。
 - エゼキエル書40章4節 -

 神はさばきの最中でも、イスラエルに回復を語られます。このことは、私たちにとっても、大きな慰めであり、希望です。もちろん神は、罪を犯してしまった人間に対して、さばきを下されますが、それは、人間が罪を悔い、神との関係を回復するためなのです。
 主は、ご自身が選ばれた民を、ご自身の契約ゆえに元どおりにされます。「彼らは、わたしが主であることを知ろう」(39章6節)、「これは、わたしの聖なる名のための熱心による」(39章25節)と語られるように、民のどんな功績にもよらず、一方的な恵みのゆえにです。
 今日、私たちにも同じ主の恵みが注がれていることに感謝したいと思います。

 エゼキエルは、70年のバビロン捕囚の途中の14年目に、神によって新しい神殿の幻をいただきました。それも脳裏に残るほどしっかりと、綿密に、具体的に。これはエゼキエルにとって、どれほどの慰めだったことでしょう。
 主は、エゼキエルに、見聞きした神殿の幻を心に留め、イスラエルに告げさせました。目前のバビロン捕囚の現実に希望をなくした人間にとっても、神の幻はどれほどの慰めとなったでしょう。

 私たち信仰者は、信仰生活を歩むなかで、多くの問題に打ちのめされるときがあります。あるときは希望さえないと思えるときもあるでしょう。そのとき、私たちはどうすればよいのでしょうか。その問題を主のもとにもって行くよう求められています。天の御座におられる方は、試練の先に、脱出の道を用意しておられます(第一コリント10章13節)。
 神の時は、残念ながら私たちが理解できるものではありません。しかし、主が最善をなされる方であることを信頼して、私たちは今日を歩んでいきたいと思います。私たちの主は、信頼する者を裏切られる方ではなく、むしろ力づけ、試練を乗り越えさせてくださる方です。
 下を向いていては希望が見えないでしょう。さあ、主を仰ぎ見て進みましょう。

【金曜】 エゼキエル書41章~43章

 今、彼らにその淫行や王たちの死体をわたしから遠く取り除かせなければならない。わたしは永遠に彼らの中に住もう。
 - エゼキエル書43章9節 -

 神は、エゼキエルを、本堂、外庭へ連れて行かれた後に、東の門に連れて行かれました(43章1節)。すると、主の栄光が東の方から現れたのです。それは、かつて幻のなかでエルサレムに連れて行かれて見た幻のようであり、ケバル川のほとりで見た幻のようでもありました。かつて主の霊は神殿から東の方に去って行かれたけれども、今回の幻は、再び主が神殿に戻られ、ご臨在される幻でした。「主の栄光は神殿に満ちていた」(43章5節)。
 私たちが最も求めるべきは、この神のご臨在です。主はかつて、不信仰と偶像礼拝によってイスラエルから離れ去られました。しかし、主が再び神殿にご臨在されるという幻は、神との回復を意味します。この幻は、エゼキエルをどれほど元気づけたでしょうか。
 さらに主は、こう言われます。「わたしは永遠に彼らの中に住もう」(43章9節)。つまり、完全なる主の栄光を仰ぎ見るときが来るのです。

 しかし、そのためには、取り除かなければならないものがありました。それは主の聖なる御名を汚すものです。今日の箇所では「淫行や王たちの死体をわたしから遠く取り除かせなければならない」(43章9節)と言われています。
 ここで私たちが問われるのは、私たちが主の前に、取り除くべきものはないか、ということです。神の前で、二心になっていないだろうか。神様とお金を両天秤にかけていないだろうか。名声や異性、その他ありとあらゆるものを、主との天秤にかけていないだろうか。うすうす自分でも気づいているのに見ないようにしている罪はないか。罪は神と私たちの間にあって大きな壁となります。そして取り除かれる必要のあるものです。今、それに気づいたなら、主のもとにそれを持っていく必要があります。
 「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます」(第一ヨハネ1章9節)
 さあ、今、私たちの心を探ってみましょう。そして、主に、永遠に私たちのなかに住んでいただきたいと思います。

【土曜】 エゼキエル書44章~45章

 しかし、イスラエル人が迷ってわたしから離れたときもわたしの聖所の任務を果たした、ツァドクの子孫のレビ人の祭司たちは、わたしに近づいてわたしに仕え、わたしに脂肪と血とをささげてわたしに仕えることができる。
 - エゼキエル書44章15節 -

 イスラエルは、神と親しい交わりをする民として神に選ばれました。そして、その中心は神殿での礼拝でした。礼拝のなかで、罪ある者が神の前に受け入れられるには、罪の身代りのいけにえをささげなければなりませんでした。祭司は、神の前に受け入れられるように、民のためにいけにえをささげ、民を教える務めを、神から委ねられました。祭司は、聖なるものと俗なるものの違いを教え、汚れたものと、きよいものの区別を教えなければならないとされました(44章23節)。すなわち、神に受け入れられるものと、受け入れられないものを教えるよう求められたのです。また、神殿礼拝の中心である、いけにえをささげる務めを担いました。いけにえをささげる祭司は、格別きよさが求められていました。
 しかし、イスラエルの歴史では、その祭司でさえ偶像礼拝に走ったのです。それゆえに神は、偶像礼拝に関わった祭司たちがいけにえをささげる奉仕に携わることを禁じたのです(44章12~13節)。
 けれど主は、主に仕えることができるツァドクの子孫を残しておられたのです。それ以外の祭司は、どんなにたくさんのいけにえをささげようとも、また悔いようとも、主にいけにえをささげることが許されませんでした。主の前に赦される罪と赦されない罪があることを、思い起こさせます。

 ここで考えるべきは、万人祭司の教えです。大祭司アロンの子どもたちは全員祭司でした。同様に、キリストの霊の子どもである私たちも、祭司なのです。そう考えると、牧師たちだけでなく、私たちも、神の前にきよい生き方を求められていることに気づきます。
 しかし、私たちはそれにふさわしい歩みができているでしょうか。神の前に完全にふさわしい歩みは、私たち人間の力ではできません。
 では、そのまま罪のなかに沈み、神のさばきに服すしかないのでしょうか。いいえ、一つだけ方法があります。それは、キリストの血潮です。この十字架の血潮は、私たちのすべての罪を洗い流し、きよめてくださいます。
 キリストのもとに行き、私たちの罪を赦していただきましょう。決して赦されないと思われる罪も、何度も犯してしまっている罪も、キリストが十字架により贖いの代価を払われました。赦されるのです。さあ、今すぐキリストのもとに行こうではありませんか。そして主に近づいて、御霊によって、人の頑なさを取り除いていただき、子としての歩みをさせていただきましょう。

参考文献

  • テーラー/関野祐二:訳『エゼキエル書(ティンデル聖書注解)』(いのちのことば社、2005年)
  • 鷹取裕成『新聖書講解・エゼキエル書』(いのちのことば社、1989年)
  • 服部嘉明「エゼキエル書」『新聖書注解・旧約4』(いのちのことば社、1974年)
  • F. B. マイヤー/小畑進:訳『きょうの力』(いのちのことば社、2002年)