旧約 第47週
エゼキエル書17章~30章

東京めぐみ教会 牧師
安海 和宣

2009年10月31日 初版

はじめに

 本文の解説に入る前に、歴史の全体像を振り返ることが、理解する上で有益だと思う。ソロモンの死後、王国は南北に分裂する。北王国イスラエルには19人の王が立つが、ことごとく「主の目の前に悪を行い」、その結果アッシリヤに攻め落とされ紀元前722年に滅んだ。一方、南王国ユダには20人の王が立ち、ときには宗教改革などによって信仰復興することもあったが、偶像礼拝などの「悪」を重ねた結果「バビロン捕囚」とされ、紀元前587年には首都エルサレムと共に神殿も破壊された。ここに至るまで神は「神に立ち返る」ようにと、数多くの預言者を送った。その一人が預言者エゼキエルである。
 エゼキエルはバビロン捕囚として移住させられてから5年の後に、預言者として召命を受け、本預言書に記されているとおりの神の言葉を語り始める。その預言の言葉の大枠は、「神のさばき vs 回復の希望」と言える。すなわち、このまま神に背き続けるなら神のさばきという厳しい現実が待ち受けている、しかし「悔い改めて悪から立ち返る」とき、神は回復を備えてくださっている、というメッセージである。

【日曜】 エゼキエル書17章~18章

【17章】

 2羽の大鷲が預言の言葉に登場してくるが、これはそれぞれバビロン王とエジプト王を指す。バビロン捕囚が始まり、エルサレム陥落までの間、南王国ユダがこの2国とどんな関係にあったか、またその問題とは何かが、大鷲のたとえによって語られている。ユダ(若枝の先、ぶどうの木)はバビロン捕囚とされるが、王に依存しつつも「成長し」、「よくはびこ」った。また、エジプト王にも頼る姿がある。このような他国への依存は神に反する行為(イザヤ30章1~2節、エレミヤ37章7節)であり、神との契約の無節操を意味する。それゆえ、罰は免れることはなくさばかれる。しかし22~24節からは、さばきの後に恵みによる回復を神が備えていること、究極の回復はメシヤによって成されることが語られている。

【18章】

 当時広く行き渡っていた諺が代弁しているように、「自分たちが直面している今の苦難は父祖の過ちのゆえ」、というメンタリティをイスラエルの民も握っていた。その弊害は深刻で、人々は運命論的悲観主義に陥り、個人の悔い改めが軽んじられ、さらには不公平を訴える神への不満へと導いた。
 そのようななかで、父祖の罪の影響をその子が受けることがあったとしても、さばかれるものではない。罪を犯したその当人がさばかれるという原則を繰り返し主張するものである。
 文体に目を向けると興味深い。死ぬ/生きる/死ぬ/生きる・・・が交互に章全体に渡って縞模様のように繰り返されている。そして章の締めくくりは、「だから、悔い改めて、生きよ」と声高らかに語るのである。

【月曜】 エゼキエル書19章~20章

【19章】

 イスラエルの君主たちの姿を悲しむ歌、2つの哀歌が記されている。
 最初の哀歌(1~9節)のモチーフは獅子。「母である獅子」は南王国ユダを表し、「子獅子」はユダの王たちを表していると思われる。
 獅子の悲惨な姿を悲しむ哀歌の次に、ぶどうの木のたとえを用いた哀歌(10~14節)が歌われている。「ぶどうの木」は、神が選んだイスラエル王国を表し、かつては豊かな水が流れる約束の地に植えられた。しかし、神の契約への背信のゆえに、「荒野と砂漠と、潤いのない地」バビロンへと移されてゆく。この姿を嘆く哀歌が悲しく響く。

【20章】

 「第7年」とは紀元前591年で、バビロン軍によってエルサレムが陥落する数年前のことである。イスラエルの長老たちの幾人かが主に尋ね求めた。それに対する神の応答が本章である。
 まず、エジプトの奴隷状態から解放されたところから始まり、荒野を歩むなかで、乳と蜜が流れる約束の地に導き入れ、その後どの時代においてもイスラエルは深刻な背信行為を行い続けてきたことが語られている。それは偶像礼拝であり、おきてと定めに逆らう行為や安息日を汚す行い、霊的な姦淫などなど・・・。「不信に不信を重ね、わたしを冒涜した」(27節)歴史だった。
 しかし、それでも回復のときが来ることが語られる。イスラエルのささげものを喜んで受け入れられる神の姿、関係が回復した姿が、33節から後半へと続く。

【火曜】 エゼキエル書21章~22章

【21章】

 前章45節からのところでは火によるさばきが、そして本章に入ると剣によるさばきが、主との契約に違反する者に向けられることが語られる。具体的には、3つの神のことばがエゼキエルに臨んだ。
 最初の1~7節では、神が剣をさやから抜いたことを知り、それに恐れおののく人々の様子が描かれている。
 次の8~17節では、「剣の歌」とも呼ばれる部分であり、さばきに用いられる剣が研がれ、磨かれて、いつでも振りかざされる状況にあることを伝える。
 そして最後の19~32節では、神の剣は王たちにも向けられていることを語る。

【22章】

 本章において、3つの神のことばが記されている。
 1~16節までは、エルサレムの町で起こる罪が指摘される。人々は偶像で身を汚し、イスラエルの君主たちは暴力を奮って血を流している。弱者が虐げられ、聖なるものが蔑まれ、安息日が汚され、そして性の混乱・倒錯が溢れていた。これを神は罰する。そして、諸国の中に散らすが、それでもやがて神は汚れを全く取り除き、再びゆずりの地を与えると語る。
 17~22節では、イスラエルの家が「かなかす」にたとえられ、金属のカスとして価値のないものであることが強調される。かなかすは集められ火を吹きつけられて溶かされるのと同様に、イスラエルの家も神の怒りの火が吹きつけられ、町の中で溶かされる。
 23~31節は、指導者層(社会的、宗教的、軍事的)に対する罪の告発である。彼らはやがて「滅ぼすことに巧みな残忍な者たちの手に」渡される、と。

【水曜】 エゼキエル書23章

【23章】

 淫行の限りを繰り返す2人の姉妹を登場させて、サマリヤ(北王国イスラエルの首都)とエルサレム(南王国ユダの首都)がいかに罪深いかを述べる。以下、本章に記されていることを簡潔にまとめたいと思う。
 ■ 姉オホラ(サマリヤ):
   アッシリヤ人とエジプト人により身を汚す(偶像で身を汚す)。→ 神はアッシリヤの手に渡す。
 ■ 妹オホリバ(エルサレム):
   アッシリヤ人とバビロン人により身を汚す。→ 神は四方から諸国を攻めよこす。
 彼女たちは諸外国の下で殺され、家々は焼き払われる。そして、神はみだらな行いをやめさせる。「あなたがたは、わたしが神、主であることを知ろう」の一言で締めくくられている。この表現は、エゼキエル書のキーワードの一つである。神の恵みが言い渡されたとき、また今回のようにさばきが宣告された直後に、数多く登場してくる言葉だ。
 広い視野に立ってもう一度本書を眺めることにするが、バビロン捕囚下にあって神がエゼキエルをとおして伝えようとする最大のメッセージは、イスラエルの民が「神が主であることを知」って、悪を離れて神に立ち返ることである。この視点に立ってこの言葉に注目し、出てくるたびに線を引きながら読み進めていただきたいと思う。

【木曜】 エゼキエル書24章~26章

【24章】

 前章までは、南王国ユダが犯す罪の告訴とそのさばきが、警告と予告というかたちで語られてきたが、本章に入ると、いよいよさばきが現実のものとなることが、さびた鍋のたとえで示される。鍋は主のさばきの場を表し、さびはエルサレムの流血と不道徳を、そしてその中に入れられる肉はエルサレムの住民を表す。
 15節からは、エゼキエルの妻の死とエルサレムへの主のさばきが重ね合わせて語られる。妻を失ったエゼキエルは、悲しみの表現をしないように神から告げられるが、その「普通では考えられない」姿を見て、エルサレムの人々はエゼキエルにその行動の意味の説明を求める。そこで主が答えるのだが、その答えとはエルサレムに対する徹底的な主のさばきの宣告であった。愛する者を失うその苦しみを味わうのはエゼキエルだけではない、と。

【25章】

 ここまで南王国ユダに対するさばきの宣告を見てきたが、いよいよ本章からは国々に対する主のさばきが記されている。近隣諸国へのさばきは本章、ツロとシドンへのさばきは26~28章、そしてエジプトに対するさばきが29~32章である。
 25章1~7節では、アモンに対するさばき。そのさばきの根拠は、イスラエルの民が災いに遭っているときにあざけって喜んだことにある(3・6節)。
 8~14節までは、モアブとエドムに対するさばき。そのさばきの根拠は、「見よ、ユダの家は異邦の民と変わらない」(8節)と言ったこと。
 15~17節には、ペリシテに対するさばき。そのさばきの根拠は、イスラエルに対して復讐を企て、敵意をもって滅ぼそうとしたことにある。

【26章】

 26章1節~28章19節がツロに対する、そして28章20~26節がシドンに対するさばき。この両国は地中海沿岸フェニキア地方の都市国家で、交易で非常に栄えた。
 ツロに対する主のさばきは徹底的なものであった。そのさばきの根拠は、2節で説明されている。「人の子よ。ツロはエルサレムについて、『あはは。国々の民の門はこわされ、私に明け渡された。私は豊かになり、エルサレムは廃墟となった』と言ってあざけった」と。

【金曜】 エゼキエル書27章~28章

【27章】

 ツロの姿が沈没寸前の商船にたとえられ、哀歌として預言されている。壮大で非常に美しい船であり、世界中の高価な宝や特産物を積んでいる。これはツロが、地中海沿岸の国々の特産物を取り扱うことによって繁栄していることを示す。12節からは取引相手国の名前も記されている。
 しかし、この美しい商船の積荷や船員はやがてすべて「海の真中に沈んでしまう」(27節)ことが語られる。船員が泣き声を上げるだけでとどまることなく、さらに島々の住民たちもすべておぞ気立ち、恐れてあわてふためく。

【28章】

 本章の前半では、「私は神だ!」と宣言し、尋常を超えて高ぶるツロの王に対して、さばきが述べられている。この状態は「自分の心を神の心のようにみなした」(6節)と指摘され、その結果、横暴な民族がツロを攻めて来ることが預言される。
 20~24節は、シドンに対するさばきの宣告である。シドンはツロの北32kmにあり、そのさばきの根拠は、イスラエルにとって「突き刺すいばら」「侮るとげ」となっているからである。
 25~26節は、ツロとシドンへのさばきの締めくくりの部分であるが、そこには神の契約の民であるイスラエルの回復の約束が宣言されてある。

【土曜】 エゼキエル書29章~30章

【29章】

 ここから32章までは、エジプトに対するさばきが語られる。エジプトへのさばきがこのように長きにわたって記されるのは、エジプトが大国であり、なおかつイスラエルに大きな影響を与えていたからである。
 29章1~16節は、エジプトに対するさばきの「導入」部分に相当し、ツロが沈没寸前の船にたとえられたのと同様に、エジプトの王パロ(ファラオ)が「わに」にたとえられている。エジプトを代表するナイル河に横たわる大きな「わに」は、「川は私のもの。私がこれを造った」と豪語する。しかし、この「わに」は捕らえられ、神のさばきが及び、地が荒れ果てて廃墟となる。それに至るプロセスとして17節からは、ツロを攻撃したバビロン軍が南下し、やがてエジプトを陥落させることが語られる。

【30章】

 「主の日」は聖書の中にしばしば登場してくるが、神が何か特別な働きを成すときに使われる表現である。本章においては、それが主のさばきの日であり、主がバビロンの王ネブカデネザルを用いてエジプトをさばく日であることを定めている。そしてこの日は「エジプトの日」(9節)としても表現されている。この主のさばきは徹底的なものであり、エジプトの住民は「神が主であることを知る」ようになる。
 20節以降は、神がバビロンの王の腕を強くする一方で、パロの腕が折られる様子が描かれている。