旧約 第46週
哀歌4章~エゼキエル書16章

日本同盟基督教団 櫛形キリスト教会 牧師
茅場 玲

2009年10月31日 初版

【日曜】 哀歌4章~5章

【4章】

 本来はかけがえのない、すばらしい価値を持っているはずのものが、無価値と見なされ、投げ捨てられています。神の選びと祝福に与っていたはずのユダの民は純金、聖なる石と称されていました。しかし、飢えの窮乏のなかで、女が「自分の手で自分の子を煮て」食物とするという地獄絵図が繰り広げられる有様です。異邦人からも「汚れた者」と追い払われ、主からも怒りの炎がくだされ、散らされているのです。
 なぜ、こんなことが起きたのでしょうか。13節によれば、預言者、祭司たちが、正しい人の血を流したためとあります。この罪に対する主の激しい怒りに、ユダの民はさらされているのです。その主のさばきは、たとえエルサレムが難攻不落に見えたとしても(12節)とどめられるものではありません。他の国に救いを求めようと(17節)、自分たちの王に期待しようと(20節)、失望に終わります。
 主のさばきにはえこひいきがありません。たとえ選民ユダであっても、そしてユダに対する主のさばきに用いられるエドムであっても、その咎に対しては公平にさばかれるのです。
 厳粛かつ敬虔に、この方に悔い改めと信頼をささげて歩みたく思わされます。

【5章】

 主のさばきはまだ終わってはいません。主から与えられた相続地、身分を失い、恵みの賜物であるはずの水さえ、代価を払わなければ手に入れられない状況が描かれています。安息日を定めてくださった主の恵みとしての休息も得られず、常に剣につきまとわれる圧迫があり、老若男女すべてが霊肉ともに憔悴しきっています。
 このような状況を招いた原因は、先祖の罪(7節)であり、自分たちの罪(16節)であるとの告白が綴られています。苦難や窮状を、神や誰かのせいにするのではなく、自らの問題であると告白しているのです。その上で、主の絶対的主権を憶えつつ「あなたのみもとに帰らせてください。私たちは帰りたいのです」(21節)と懇願しています。個々の問題の解消ではなく、主への悔い改めのみが本当の解決となる、と確信しているからでしょう。
 「あなたはそのままでいい」というメッセージがはやる時代です。確かに私たちの経験するすべての苦難が、罪のさばきであるとは限りません。しかし、それが言い訳になって、自分の、あるいは自分たちの罪に向き合わず、主に告白し悔い改める機会を持たないなら、本当の癒しは与えられないのではないでしょうか。

【月曜】 エゼキエル書1章~3章

【1章】

 ユダの民が捕囚として連行されて行った先、ケバル川のほとりで、祭司エゼキエルに主のことばと幻が臨みました。主の臨在は、エルサレム神殿だけにあるのではありません。異邦人の地であっても、また捕囚というさばきの真っ最中であっても、確かに主のことばは語られ、主の御手は置かれるのです(エレミヤ23章23~24節)。
 そこで見せられた幻に出てくる生き物は、ケルビムです(10章15節)。その姿の描写の一つ一つの意味を特定するのは困難ですが、むしろ注目させられるのは、ケルビムのはるか上に見えた主の栄光を目の当たりにしたとき、ひれ伏したエゼキエルの姿です(26~28節)。困難に圧倒されてふさぎ込んだりうなだれたりするよりも、すべてのものの上におられる主の栄光の前にひれ伏したいものです。

【2章】

 2章でエゼキエルは、主から預言者としての召命を受けます。立ち上がれ、ということばとともに、主の霊が、ひれ伏していたエゼキエルを立ち上がらせました。そして、彼は主からのメッセージを聞くのです。
 ところが主がエゼキエルに語れと告げたメッセージは、耳障りのよいことばではありませんでした。むしろ聞く人々が腹を立て、拒絶し、エゼキエル自身に迫害による危害を及ぼしかねないようなメッセージだったのです。その内容は哀歌、嘆き、悲しみでした(10節)。手軽な癒しを与えてくれる慰めなら聞きたい、と思う人もいるでしょう。しかし、エゼキエルが語るべきことばは、「神である主が仰せられる」ことです。それゆえ聞く相手が、たとえ聞かずとも、彼らの顔を恐れず、まっすぐはっきり語らなければなりません。
 私たちは人の顔を恐れ、語るべきことばを閉ざしていないでしょうか。

【3章】

 エゼキエルは主のことばである巻物を食べさせられます。主のみことばは、たとえ哀歌、嘆き、悲しみであっても、信仰をもって受け取るなら「蜜のように甘い」ものです(第二コリント7章10節)。まずは預言者がその喜びに満たされる必要がありました。そして語るときに力を与えてくださるのも主です(8~9節)。
 語るべきことばを与え、喜びを与え、語る力を与えるとの、主の配慮と約束があります。それはなんとしても主のことばを届けたいという主の思いがあるからではないでしょうか。であればこそ、語らないなら、預言者はその責任を問われることになります。
 現代でも、語る者聞く者ともに、みことばをどう語るか、どう聞くかが問われています。

【火曜】 エゼキエル書4章~6章

【4章】

 エゼキエルは主から、いくつかの象徴的行為をなすように命じられました。これは当然、彼が主からのメッセージを伝えなければならない相手、すなわち、イスラエルの民の目の前でおこなわれるべきものです。聞かせるみことばというより、見せるみことばとしてのジェスチャーと言えるかもしれません。
 まず、粘土板に彫りつけられたエルサレムを、鉄の平鍋で囲め、といわれます。つまりユダの人々が心のよりどころとしていたエルサレムは敵に包囲され、陥落するのです。
 次にエゼキエルは、左脇を下にして390日間横たえさせられます。次に右脇を下に40日間。1日を1年に換算した390年間、40年間のイスラエルの罪に応じて、神のさばきが続くのです。
 この間の食料として、主は一日一度の計量されたパンと水のみ許されました。しかもそのパンは公衆の面前で、人糞で焼け、と命じられるのです。エルサレムが飢餓と汚れに覆われる象徴でしょう。主の哀れみとして譲歩があるものの(15節)、主のさばきはエルサレムに徹底して臨み、人々に不安をもたらします。

【5章】

 イスラエルにおいて頭とひげを剃るのは、嘆きを表します。祭司は髪にカミソリを当てることを禁じられています(レビ21章)が、せよ、と命じられます。さらにそれを3分の1ずつ分け、焼き、打ち、散らさせます。同じことを、主はエルサレムに対して行われるとの預言です。
 選民イスラエルは、いつの間にか選民であることにあぐらをかき、エルサレムが責め滅ぼされることはあるまいと高を括り、最も大切な主への信頼と従順を忘れてしまっていたのです。その罪に対して主は「あなたを惜しまず、また、あわれまない」(11節)というほどの激しい怒りを注がれるのです。
 とはいえ、「惜しまず、あわれまない」ならばなぜ、主はエゼキエルを預言者として召したのでしょうか。「主の熱心」(「ねたみ」とも訳せる)を知ってほしいからではないでしょうか。預言の警告を悟って悔い改める魂を、なおも求めておられるからではないでしょうか。

【6章】

 イスラエルの山々は「高き所」として偶像礼拝の場とされることがありました。その山々に向かって偶像と偶像礼拝者へのさばきが宣言されます。そして当然のことながら、主こそほめたたえられるべき方であることが明らかにされるのです。
 「残りの者」(8節)の存在は希望です。私たちも一方的な主の哀れみでさばきを免れた者として、この方こそ主の主である、と告白しましょう。

【水曜】 エゼキエル書7章~9章

【7章】

 主は、「終わりが来た」(2節)、「わざわいが来る」(5節)、「その日が来る」(10節)、「苦悩がやって来る」(25節)と繰り返し告げておられます。偶然の災害などでは決してありません。主ご自身がさばきとして下す災いであり、イスラエルの民の今までの行いに対する報いです。尋常ではない緊迫感が伝わってきます。
 この災い、剣、ききん、疫病(15節)によるさばきに対して、たとえ戦い、抗ったとしても、完全に人間は無力です。また今までより頼んでいた金銀や、偶像も、自分たちを守ることができず、何の役にも立たないことがはっきりします。こうなってしまうまでそのことを悟れない人間の頑さを思わせられます。
 それにしても「わたしの聖なる所(隠されたもの)」を悪者どもに汚させると主が言われるとは(21節)! 人間に滅びを宣告される主自ら、痛みをその身に負われるという事実を厳粛に受けとめましょう。

【8章】

 ユダの長老たちがエゼキエルの前に座っています。この期に及んでもなぜ自分たちに災いが及んだかわからずに、エゼキエルに尋ねに来たのかもしれません。あるいはエルサレムに災いが及ぶなど信じられなかったのでしょうか。すると主の御手がエゼキエルの上に臨み、エルサレムの幻を見させられるのです。
 しかしそこで見させられた現状はひどい有様でした。北の祭壇の門にはねたみの偶像が置かれ、壁の向こうでは70人の長老が壁一面の偶像に礼拝を捧げています。主の宮の北門では、タンムズという偶像への礼拝、同じく宮の内庭では25人ほどが太陽を拝んでいたというのです。
 「神の平和」と名付けられたエルサレムにおいて、忌まわしい偶像礼拝の数々。これは決して「ささいなこと」ではないのです。主のさばきは正当なものであり「惜しまず、あわれまない。彼らの声も聞かない」とのことばは、主が冷酷すぎるためではありません。

【9章】

 幻のうちに、エルサレムへのさばきが遂行されます。主に呼び出された7人の御使いに、容赦なく、年齢、性別関係なく殺すよう命じられ、実行されていきます。
 たまらずエゼキエルも、主に叫びました。しかし、このさばきから逃れられる唯一の道は「忌みきらうべきことのために嘆き、悲しんでいる」(4節)かどうか、でした。まず罪を悲しむことなくしては、いかなる信仰の歩みも表面的になってしまいます。罪に鈍感であってはなりません。これくらいは誰でもやっている、などと軽く考えてはならないのです。主の御目はどこにでもあるのですから。

【木曜】 エゼキエル書10章~12章

【10章】

 前章では、滅びから免れさせるために「忌みきらうべきことのために嘆き、悲しむ」人々の額に印をつけた御使いが、10章では、燃える炭火をエルサレムの町にまき散らすために遣わされます。5章4節の預言の成就と言えるでしょう。
 そしてついに、主の栄光は、翼を広げ、車輪をかって飛び立つケルビムとともに神殿の敷居から出て行きます。かつてソロモンが神殿を建てたときに、主は祈りに答え、「わたしはこの宮を聖別した。わたしの目と心はいつもそこにある」と言われました(第一列王9章3節)。その神殿から栄光が去るのです。それこそが究極の神のさばきではないでしょうか。

【11章】

 続けて主がエゼキエルに見せたのは、東の門にいる25人でした。そのなかには、アズルの子ヤアザヌヤと、ベナヤの子ペラテヤがいました。彼らは捕囚の際にエルサレムに残されたために安心しきったのでしょうか。エルサレムは鍋で、自分たちは肉だ、というのです。つまり、貴重な自分たちが投げ捨てられることはない、という楽観論を展開し、悔い改めを妨げていたのです。
 彼らの思いとは裏腹に、実は彼らによって殺されてしまった者たちこそ肉である、とエゼキエルは預言します。そして、剣によるさばきの宣告をしている最中に、ペナヤの子ペラテヤが死にました。エゼキエル自身は、彼らが「残りの者」であり、回復は彼らから始まると思っていたのかもしれません(13節)。
 しかし主は、むしろ捕囚の民とともにあって聖所となっていた、とおっしゃるのです。散らされて困難を経験し、罪に向き合い、悔い改める捕囚の民こそ、主が残りの者としてくださる存在でした。主は喜んで新しい霊を与え、関係を回復してくださいます。
 主の愛は、愛する者をしかる父のような愛です(箴言3章11~12節)。苦難のなかでも主の愛を憶え、素直な悔い改めへと導かれたいものです。

【12章】

 捕囚の民に向けて、エゼキエルは再び象徴的な行為をするようにと命じられます。それは、頑なな彼らが罪を自覚するかもしれない、という主の期待によるものでした(3節)。預言の内容は、依然として厳しいものです。エゼキエルが荷物を負って捕囚の民のように出ていけとの命令や、恐れながら食事をせよ、という命令は、今エルサレムに残されている者たちも、異邦の地に捕らえ移されることの宣告です。
 どうせそんなことは起こらないだろう、起こるとしてもまだまだ先だろう、という意識があったようです(22節)。しかし、主のことばは必ず、かつ速やかに実現するのです。
 私たちはどうでしょうか。主のことばを侮って、悔い改めを先延ばしにしてはいないでしょうか。

【金曜】 エゼキエル書13章~15章

【13章】

 主のみことばは、確実に、速やかに実現します。しかし、もし主からのことばでないのに、主の告げたことと偽るなら、そのことばには何の力もないばかりか、聞く者をつまずかせ、正しい信仰から遠ざける害悪となります。
 この時代も偽りの預言者がいたのです。自分の心のままに語り、イスラエルを修復しようとしません(5節)。また、主のさばきを憶えて悔い改めをしなければならないときに、偽りの「平安」を語り、壁をあっという間にしっくいで塗ってしまい、見た目はそれなりに整えてしまうのです。また、民を占いによって惑わす女預言者たちもいました。しかも彼女らは、自分たちを満たすわずかなパンのために、民全体を迷わせていたのでした。
 主の怒りは彼らに向かい、さばきが厳しく臨みます(第二ペテロ2章1~3節)。「まやかしに聞き従」ってしまう愚かな民にもかかわらず、「わたしの民」と呼び、救い出そうとする主のあわれみを憶え、真実のみことばに聞き従いましょう。

【14章】

 偶像礼拝は、何も異教の神殿で物体としての像を礼拝することだけではありません。心に秘めたかたちで、主以外のものに心を寄せ、結果的に不義に陥る生き方もしかり。そしてそちらのほうが深刻です。イスラエルの長老はエゼキエルの前に座りますが、心から主のことばを求めてはいなかったと思われます。13章で糾弾された預言者たちの偽りのことばだけが悪いのではありません。聞く者も悔い改め、偶像と忌みきらうべきものを心から除いたうえで(6節)、主のことばを聞かなければならないのです。
 ですから主のさばきは一人一人に応じて行われます。ノア、ダニエル、ヨブと言えば、信仰の義人中の義人と呼べる人物です。そんな彼らでも、主のさばきの前には自分の義で自分を救うことができるにすぎません。他人の義が自分の救いの保証にはならないのです。彼らの家族でさえ、滅びるならそれは本人の罪のためなのです。
 エルサレムから新たにつれてこられる捕囚の民をとおして、慰めがもたらされるとはどういうことでしょうか。いずれにしろ、何らかのかたちで主の正義は確かにあらわされるのです。

【15章】

 聖書中でイスラエル民族は、よくぶどうの木にたとえられます。ぶどうの木は、実を豊かに結んでこそ、すばらしい木ですが、枝そのものは他の木々と比べて何の役にも立たず、価値もありません。焼かれてしまった後ではなおさらです。
 あなたをとおして諸国の民は祝福されるというアブラハム契約(創世22章18節)の実を結ぶことができなければ、イスラエル人そのものが、他と比べて何の特別な価値があるでしょう。「価値がある。神は我らを滅ぼさない」という勘違いが致命的な主のさばきを招くことになったのです。
 私たちもおごることなく、主につながり、実を結ぶことを求めていきましょう(ヨハネ15章5節)。

【土曜】 エゼキエル書16章

【1~14節】

 いかに主がエルサレム、つまりユダ・イスラエルを愛しておられたかが伝わってきます。それを知れば知るほど、エルサレムへのさばきの妥当さ、主の正当さが際立ちます。
 そもそもエルサレムはカナン人の町でしたし、ウルの地からやって来たアブラハムのルーツは、今のイスラエル人から見れば異邦人でした。自分はイスラエル人であり、異邦人ではない、という高ぶりは何の意味もないのです。
 主は、ただ一方的なあわれみによって、捨て子同然だったみじめな彼らを見つけ、「生きよ」とことばをかけられたのでした。水で洗い、油を塗り、着飾らせ、様々な宝飾品と冠を与え、女王の身分までくださったのです。一方的な愛です。受ける側には何の功しも能力も要求されていません。

【15~34節】

 ところが、「自分の美しさに拠り頼み、自分の名声を利用して姦淫を」(15節)行うようになってしまったのでした。主から与えられた賜物を、あたかも自分の力で得たかのように誇り、自慢し、濫用してしまうなら、それは罪です。その後は堕落の下り坂を転げ落ちるように、偶像礼拝という姦淫を重ねて行ったのでした。また、その罪を忠実に次世代に受け継がせ(20節)、主の子を殺し、焼き、偶像へのささげものとする(21節)という言語道断のふるまいまでしてしまいました。
 主も飢饉を送ったり、悔い改めの機会を与え、忍耐をもって待たれます。しかし、ユダは戻っては来ませんでした。むしろ一般の遊女が受け取る報酬を受け取らず、むしろ代価を払って姦淫を続けます。要するに、ただ自分の快楽のために忌まわしいことを繰り返す、という姿です。

【35~58節】

 ユダを生かす主の愛を踏みにじるようなふるまいに対して、主は、さばきを宣告されるのです。主ご自身が「ねたむ」(38節)と言われることに注目させられます。すべてのものを持っておられ、他の何かに満たしてもらう必要の一切ない方が、ねたみをもたれるというのです。
 罪を徹底的にさばかれるのも、義ときよさという神のご性質ゆえでしょうが、愛するユダが罪を犯したままでいることを決して放置できない、という愛ゆえということもできます。ソドムやサマリヤを引き合いに出しつつ、なんとか罪を悔いよ、という主の御心がうかがえます。

【59~63節】

 ここから赦しと回復のメッセージが語られます。罪の報いは受けねばなりません。契約の一方的な破棄は安易に見過ごされはしません。しかし、そのさばきは、ユダを完全に滅ぼし尽くしてしまうためではありません。エルサレム陥落の後、なおも一方的に主が再契約を結んでくださるという回復へと続きます。
 そのとき、主の途方もないあわれみに圧倒されたユダは、かつての罪を恥じ、主に逆らう者とはならない、と言われます。
 私たちも、どれほどの罪を、御子の十字架という莫大な恵みによって赦されているでしょうか。この主の愛にふれられるときに、心から罪を恥じ、悔いる思いが与えられるのではないでしょうか。私たちを愛してくださる主をこれ以上悲しませるのはこりごりです。罪を悔い改め、主に従い、主に信頼して歩んでいきましょう。

参考文献

  • ハリソン/富井悠夫:訳『ティンデル聖書注解 エレミヤ書、哀歌』いのちのことば社、2005年
  • テーラー/関野祐二:訳『ティンデル聖書注解 エゼキエル書』いのちのことば社、2005年
  • 安田吉三郎「哀歌」『新聖書注解 旧約4』いのちのことば社、1974年
  • 服部嘉明「エゼキエル書」『新聖書注解 旧約4』いのちのことば社、1974年
  • 『新キリスト教辞典』いのちのことば社、1991年