旧約 第45週
エレミヤ書43章~哀歌3章

日本同盟基督教団 馬込沢キリスト教会 牧師
千葉ライフ・ライン 運営委員長

山本 進

2009年10月31日 初版

【日曜】 エレミヤ書43章~45章

【43章】 エジプトへの逃亡

 すべての将校たちがエレミヤに主に祈るようにお願いしています(42章1~6節)。表面上とても敬虔です。しかし「ユダの国にとどまれ」という自分たちの意に反した主のことばがエレミヤから発せられると、それに逆らい、エジプトの国に行ったのでした(7節)。
 このような信仰は空しい限りです。自分の意に沿うみことばしか受けつけない者は、自分が神より偉い、高ぶった者たちです。生ける神の御前に立つ畏れのない信仰は、霊的に堕落しているのです。

【44章】

 「エルサレムとユダのすべての町が廃墟となる。それは、あなたがたも先祖も知らなかったほかの神々のところに行き、香をたいて仕えたためだ」(2~3節)という預言を聞いても、民は心を砕かず、主を恐れず、律法と定めに歩みませんでした(10節)。主は御顔をユダヤ人から背けて、災いを下し、ユダのすべての民を断ち滅ぼそうと預言されます(11節)。
 同時に、「ただのがれる者だけが帰れよう」(14節)とも宣言されました。全滅を免れるのは、ただ主のあわれみによります。
 しかしながら、民は「あなたが主の御名によって私たちに語ったことばに、私たちは従うわけにはいかない」と、はっきりエレミヤの預言を断りました(16節)。なんということでしょう。このような者たちの集まりは、信仰の土台をゆすぶるものです。
 そのとき主はどうされるでしょうか。主は、信仰を継承するため、少数者を残します。それは「主のことばは必ず成就する」ということをその者が知るためであり、知った者たちが証をするためであります(28・29節)。みことばの体験は証の原動力です。

【45章】 バルクへのみことば

 エレミヤの従者バルクが人間的な悲しみでその信仰を弱らせるとき(3節)、主は彼を慰めるのではなく、かえってその信仰を引き上げました。「あなたは、自分のために大きなことを求めるのか。求めるな。見よ。わたしがすべての肉なる者に、わざわいを下すからだ。しかし、わたしは、あなたの行くどんな所ででも、あなたのいのちを分捕り物としてあなたに与える」(5節)。
 地上の私たちの人生には、わざわいが多いかもしれません。しかし、霊的には、主の祝福が備えられているのです。それがみことばの約束です。主のことばがどんなに厳しくても、結局のところ、主が私たちのいのちを支えてくださるのだから、それは恵みです。
 「主のことばは必ず成就する」という信仰を強められましょう。

【月曜】 エレミヤ書46章~48章

【46章】 エジプトに対する預言

 46章から、バビロンのネブカデレザルが滅ぼす諸国に対する預言です。
 最初はエジプトの敗北。武装した兵士がおののきます。恐れがあったからです(5節)。彼らがどんなに勢いづいても(8節)、彼らはつまずき倒れます(6節)。その日が、万軍の神、主の日、エジプトに復讐する日でありました。エジプトは癒されず、勇士は勇士につまずき、ともに倒れます(11・12節)。主の剣がエジプトの周りを取り囲み、主が彼らを追い払われます。
 「わたしは生きている」(18節)とは、必ずそうなるということです。主は必ずや、その地の偶像神アモン(アンモン)とそれに仕える者、より頼む者を罰します(25節)。しかし主はエジプトに憐れみをかけます。「その後、エジプトは、昔の日のように人が住むようになる」(26節)。
 エジプトに頼ったイスラエルに対しては、公義によって懲らしめ、必ず罰するけれども、そこにも主がともにおられ、滅ぼし尽くすことはないと言われます(28節)。
 主は、このように私たちをも取り扱ってくださいます。ただ、だからといって主に背くべきでないのは当然です。

【47章】 ペリシテに対する預言

 ペリシテ人に対して破滅の預言がなされます。ガザからツロ、シドンに至る地中海沿岸に住み、イスラエルを圧迫してきたペリシテ人に対して、主が剣に命じられました。

【48章】 モアブに対する預言

 モアブに対する預言です。モアブの町々が滅ぼされていきます。主の戦いの特徴はその地の偶像との戦いです。偶像神ケモシュは、それに仕えていた祭司や首長たちとともにバビロンの捕囚となります(7節)。同時に、主への信仰が求められています。「主のみわざをおろそかにする者は、のろわれよ」(10節)。
 モアブは安定した国で、捕囚になったことがありませんでした(11節)。しかし、偶像に頼る者は、それによって恥を見ます。モアブは勇士でした(14節)。しかし、その力の象徴である角は切り落とされ、その腕は砕かれたのです(25節)。
 高ぶり、高慢は、神のことばを聞かず、その自慢話はでたらめで、その行いも正しくなく(30節)、しかもそれに気づかないのです。主は彼らを酔わせ、物笑いとされます。
 主は宗教的に聖めます。高き所でいけにえをささげ、神々に香をたくモアブの者を取り除きます(35節)。また主は一度、誰も喜ばない好まない器のように、モアブを砕きます(38節)。彼らを物笑いの種とし、初めての捕囚という砕きを与えることによって、彼らの高慢を取り除きます。
 しかし、モアブには主のあわれみがあります。「終わりの日に、わたしはモアブの繁栄を元どおりにする」(47節)。回復すると主は言われるのです。偶像を捨てたモアブの救いです。あるいは、ダビデの先祖モアブの人ルツに対するあわれみかもしれません。

【火曜】 エレミヤ書49章

【1~6節】 アモン(アンモン)人に対する預言

 イスラエルの領地ガドを占領しているアモン人の町々が廃墟となります。主はまたその地の偶像をさばきます。新改訳の「彼らの王」(1・3節)は、七十人訳聖書(ギリシャ語訳旧約聖書)では、偶像の「ミルコム」と訳されています。アモン人はモアブ同様、自分の財宝により頼みました。「ミルコム」がそれに仕える祭司や首長たちとともに捕囚として連れて行かれます(3節と48章7節とを比較)。アモン人は、恐れをもたらす主によって散らされます。
 しかし、アモン人には主の憐れみがあります。主はアモン人の繁栄を回復されます(6節)。

【7~22節】 エドムに対する預言

 11節は新改訳聖書と新共同訳聖書で解釈が異なります。
 新改訳は主語「わたし」を神と解し、神に信頼するように訳します。そこでは、主は、みなしごたちを見捨てなさい、と言われます。これは詩篇68章5・6節を念頭におくものです。「エドムの人々よ。みなしごややもめを見捨てても主が住まわせてくださるのだ。その信仰があったら、滅ぼされることはないのに」というのです。この感覚に似た預言はゼカリヤ書13章7節です。主が牧者から子どもたちを取り上げ、導くのです。イエス様はこのことばを引用しました(マタイ26章31節)。
 一方、新共同訳は主語「わたし」をエドム人と解し、災難のなか、みなしごややもめを助ける人はいないと訳します。
 エドムは滅ぼされます。主はエドムを追い出し、主が選ばれた人をそこに置きます(19節)。ペリシテ同様、このエドムに対して、主の憐れみは書かれていません。

【23~27節】 ダマスコに対する預言

 ダマスコの町々も恐怖に捕らわれ、震えおののき、苦痛に捕らえられて絶ち滅ぼされます。栄誉は何の役にも立ちません。このダマスコにも、主の憐れみはありません。

【28~33節】 ケダルとハツォルに対する預言

 バビロンのネブカデレザルが両王国を打ちました。ハツォルはとこしえまでも荒れ果てます。ケダルとハツォルにも、主の憐れみはありません。

【34~39節】 エラムに対する預言

 エラムを支えていた弓の力。主はそれを砕きます。エラムの人々は敵の前におののき、災いを受けます。主の燃える怒りがその上にあるからです。彼らは東西南北、四方八方に吹き散らされ、あらゆる国に離散して住むようになります。
 しかし、エラムには主の憐れみがあります。終わりの日になると、主はエラムの繁栄を回復させます(39節)。

【水曜】 エレミヤ書50章

 50~51章はバビロンに対する預言です。主によって立てられたバビロンでしたが、そのバビロンも捕らえられ、その偶像神ベル、メロダク(マルドゥク)は辱められ、砕かれます。バビロンと同じように北から一つの国がバビロンに攻め上り、この地を荒れ果てさせたからです(2・3節)。

【4~10節】 イスラエル、ユダの悔い改めと主の赦し

 イスラエルの民もユダの民も涙ながらに、主を尋ね求めます。シオンに向かって行き、どうしても忘れられることのないとこしえの契約によって主に連なる告白をします。
 主はイスラエル・ユダを迷える羊と言います。牧者(祭司、預言者、指導者)が民を迷わし、山々に連れて行き、休み場も忘れてしまったからです。時至って主は、バビロンから逃げ、カルデヤ人の国から出よ、と赦しを語られました。

【11~16節】 バビロンへのさばきI

 主はバビロンを、イスラエル、ユダへの懲らしめのために送りましたが、懲らしめ以上にバビロンは主に罪を犯しました(14節)。そこに、バビロンに対する主の復讐があります。

【17~20節】 イスラエルの回復、ユダの赦し

 主の与える回復、赦しは完全であります。いったん回復され赦されると、イスラエルの咎は見つけようとしてもそれはなく、ユダの罪も見つけることはできません(20節)。主が、残す者の罪を完全に赦すからです。
 これは、私たちにも言える、信仰による義です。イエス・キリストを受け入れた私たちは、主の残す民であり、主ご自身が私たちの罪を赦してくださるので、その罪はもはや見つけることができないのです。感謝!

【21~46節】 バビロンへのさばきII

 諸国を打ったバビロンに、今度は主の滅び、刑罰の日が来ます。主はバビロンにわなをかけ、捕らえました。それはバビロンが主に争いをしかけたからでした(24節)。主に用いられているからといって高ぶってはいけません。謙遜に用いられましょう。バビロンはそれができませんでした。
 主のさばきは、主に対して高ぶる者になされます。主は攻め、その人を罰します。その人が行なってきたように、その人にされるのです(29節)。
 虐げられているイスラエル、ユダを贖う方、主は強いのです。主は彼らの訴えを支持し、バビロンの住民を震え上がらせます(34節)。主の剣が、バビロンの国のすべてのカルデヤ人に下ります。偶像に狂っている国をさばかれるのです(38節)。

【木曜】 エレミヤ書51章

 バビロンへの罰は天に達し、大空までのぼりました(9節)。主は、バビロンを破壊する者を奮い立たせ、他国人たちをバビロンに送ります(1・2節)。そのバビロンを破壊する者とは、メディヤ人でした(11節)。
 バビロン滅亡の原因は、イスラエルとユダの人々に対する暴虐です(35節)。主はその訴えを取り上げ、主が報復されるのです(36節)。バビロンはイスラエルの刺し殺された者たちのために倒されます(49節)。バビロンは永遠の眠りにつきます(39・57節)。バビロンが滅びるその日、主は刻んだ像を罰します(47節)。
 他方で、イスラエルもユダも、その神、万軍の主から、決して見捨てられていません。彼らはイスラエルの聖なる方にそむいた罪に満ちていたのですが(5節)。
 エレミヤの預言はここで終りました。

【金曜】 エレミヤ書52章~哀歌1章

【エレミヤ書52章】

 エレミヤ書の編集者は、ユダの王ゼデキヤとエホヤキンの治世について(それはバビロン捕囚期でありますが)、それを記すことで書を閉じています(列王記第二の終り方と同じです)。それはバビロン捕囚によってユダが滅びた記録です。エレミヤ書はユダに対する主の怒りが書かれてあり、主はユダを投げ捨てられました。

【哀歌1章】

 1~11節では、主人公ユダを三人称で表すことによって、その悲しみを客観的に描いています。12~19節では一人称で表しています。そして20~22節は主人公ユダの祈りです。ある人(あるいは擬人化されたもの)を、他者の目で、自分からの視点で、神との交わりのなかで見つめ、描いています。
 多くの背きの罪を懲らしめようと、主は諸国を用いてユダを大いに悩ましました(5節)。ユダは正気に戻り、本来自分を慰めて元気づけてくれるはずの主が遠く離れているのに気づき、目から涙をあふれ出させています(16節)。主は正しい。私は主の命令に逆らった。ここにユダの悔い改めの姿が見られます(18節)。
 主人公は神に逆らい続けたにもかかわらず、祈りのなかで神に慰めを求めています。「主よ。ご覧ください」(20節)と、ありのままをさらけ出しています。人は失敗からも学ぶことができます。改めて、主につながる信仰を覚えましょう。

【土曜】 哀歌2章~3章

【2章】

 主人公ユダを、1~10節は三人称で、11~12節は一人称で、13~19節は二人称で表しています。20~22節は、神との交わり、すなわち祈りです。
 ユダへの懲らしめはさばきに拡がり、礼拝の場所を荒れすたらせ、祭りと安息日を人々から忘れさせ、仕える王や祭司を退けられました(6節)。さらに、律法(を教える者)はなくなり、預言者にも主からの幻がなくなりました(9節)。宗教的リーダーがいなくなったのです。懲らしめは、礼拝や集会が荒れるというかたちであらわれることもあるのです。
 主のさばきは、罪を犯した大人たちに留まらず、幼子や乳飲み子まで拡がっています。彼らは広場で衰え果て、母の懐で息も絶えようとしています(11・12節)。
 子どもたちの姿を見るにつけ、人々は主に向かって心の底から叫びました(18節)。主人公は促されます。「あなたの心を水のように、主の前に注ぎ出せ」(19節)。

【3章】

 3章はすべて一人称で主の御前における証、告白が綴られます。
 1節から18節まで、主の懲らしめが証しされています。外見上の苦しみだけでなく、内面上の懲らしめもあります。助けを求めて叫んでも、主は聞いてくれません(8節)。答えのないのも主の懲らしめです。主人公のたましいは平安がなくなり、幸せを忘れてしまいました(17節)。
 19節から39節までは、主の懲らしめが、不思議なことに恵みへと変えられることが証しされています。懲らしめを思い返すなかで、主を待ち望む信仰が与えられています(21節)。不思議なことです。そしてここから、「私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる。主のあわれみは尽きないからだ」(22節)というすばらしい告白がなされています。主の懲らしめはまたくびきである。それを負わされたら、じたばたするのではなく黙って座っているのがよいでしょう(27・28節)。主の救いを黙って待つのがよい、と述べられます(26節)。
 40節から66節は、主に立ち返る祈りです。主の懲らしめを受け、祈りがさえぎられても(44節)、なお祈るとき、主は近づいてくださり、恐れを取ってくださいます(57節)。主はたましいの救い主です。訴えを弁護してくださり、私のいのちを贖ってくださいます(58節)。このお方はイエス・キリストです(第一ヨハネ2章1節)。